言い訳小僧(構造)
食器洗いも洗濯も子育ても苦手だ。
5人も子どもがいて何言ってんねん!と
思わずツッコミが入るだろう。
だがこれは抗うことが出来ない私の特性だ。
元来、私は面倒くさがりなのだ。
小学生の頃を思い出そう。
私は宿題をきちんとしない人だった。
家の中に入れてもらえず、庭の小屋で過ごしていたとかいう虐待の話は重すぎるので、ここでは割愛するが、まぁ関係ないとは言えなくはなく、小屋なんかにいたくなかったので、外の防波堤の上で宿題のプリントを書いていたのだ。面倒くさがりの私は下敷きもせずに。
案の定、プリントの字はぐにゃぐにゃ曲がりくねってガタガタしていた。
なぜ、それで良しと思ったのか私よ。
これも面倒くさがりの思考ゆえ、まぁ良いかどうでも。と、こんな感じだったのだろう。
さてそのプリントを見た当時の担任の先生は、一目見て激怒した。
なぜなんだ?と。問われたが私にも分からない。別に答えが間違っているわけではないし。
ただ皆んなの前で怒られたのは恥ずかしかったのは覚えている。
またある日は授業中、自分の目を上に上げたり下に下げたりして遊び、隣の子に喋りかけ、堂々と授業をサボっていた。
困り果てた先生は私の机をクラスの中心に置き、私の机を囲むようにクラスの子達の机をロの字に配置した。
みんなに見られながら、まるで拷問を受けているかの様な耐えがたい時間。
それでも私は教訓にすることはなかった。
今思えば私は頭の中の空想が忙しく、常に心ここにあらずだったのだ。
まぁこれを今ではADHDとか発達障害とか色々当てはめれば何とでも言えるのかもしれないが、まぁそうだなぁ、そんな名前がつくものでもなくイメージは赤毛のアンの様な子どもだったのだろう。
アンはマシューやマリラに愛情を持って育ててもらい家の手伝いも覚え、勉強にも打ち込めた。赤毛のアンが大好きな私は、アンの物語を頭の中で想像するだけで幸せな気持ちになれた。
そんな憧れのアンの様にはなれず、怒られるのが日常茶飯事だった私は、息を吐くように嘘をつき言い訳をするのが得意になった。
嘘の9割が本当の事だと信じてもらえるぐらいの演技力で、自分でも嘘か本当か分からなくなるくらいだった。
ただ残りの1割はバレてしまうのだ。
それも大きな嘘ほどバレてしまう。
すると、どうなるだろうか。
そう、そのたった1回嘘がバレたことで、今までの信用が泡となって消え、縁さえも切られてしまうのだ。
私は、これを人生の前半ずっと繰り返していた。
人生の後半、今私の目の前には溜まりに溜まった皿が、どこかの外国の大都市みたいに台所の流し台に建設され
洗面所ではダムが決壊したようにカゴから洗濯物があふれ、まるでカゴがあっかんべーをしている様にこちらをじっと見ている。
家の中は子どもの大声で溢れ返り、ある場所はライブ会場になっており、ある場所では複数のラジオ収録がされている様に、とめどなく声が溢れ、そうかと思うと「かーちゃーん!かーちゃーん!」と1番やんちゃなチビ怪獣が、ずっと私を呼んでいる。
うん、もうカオスだ。
私は夫に
「疲れている。何もしたくない。サボっちゃってます!」と嘘も言い訳もなく伝えた。
すると夫は
「あたり前!」と言って、食器洗いと洗濯物を干してくれた。ついでにチビ達とお風呂に入ってくれた。
不思議とわたしの中に申し訳ない気持ちなどは湧かず、素直に「ありがとう」と思えた。
そういえば私は、ここ何年も嘘や言い訳を言っていない。
大多数の人のことは騙しながら生きてきて、詐欺師になれば儲けられる。と真剣に思っていたほど、嘘と言い訳で塗り固められていた私が、なぜなんだ。何があったのだ。
ふと大好きなアンの事を思い出した。
幼い頃から孤児院で育ち、なかなか家族を得ることができず寂しい思いをしてきたアンは、マシューとマリラと過ごすうちに、安心し、愛を感じ、役割を担い、自分が好きな勉強に打ち込めるようになったこと。
そうか。私は結婚して安心する場所を得ることができ、家族からの大きな愛を感じ、役割も担いながら、自分がやりたいと思ったことも出来ている。
元来の面倒くさがりは治ることはなく、家事も後回しにしてしまうが、素直に甘えて、感謝出来るようになったのだ。
そういえば、もう何年も歯軋りもしていないし、肩こりもずいぶんマシになっている。
嘘や言い訳で自分を防衛しなくてもよくなったということなのか。
甘えても良いとやっと思えるようになったのだな。
私は似ている境遇であるアンに、自分を重ねて人生を振り返る。
今の家族と過ごして15年。
私の頑なに固まっていた心は、ようやく緩んできたのだなと感じた。