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初めまして。
この記事を訪ねてくださってありがとうございます。
改めまして、という方もいらっしゃると思います。

と言いますのは、昨年7月にnoteで記事を書き始めてから、一度も自己紹介が出来ていなかったからです。

今日は少し落ち着いて、この自己紹介の記事をしたためたいと思います。
長いですが、一つの物語として楽しんで読んでいただけると幸いです。

姓は丸谷(まるたに)、名は留奈(るな)と申します。(人呼んで岩手の留奈と発します)
生まれも育ちも広島県広島市で、豊かな山と川、瀬戸内の多島美に囲まれて育ちました。
小学校時代から岩手に興味を持ち、2009年から岩手に旅行する事13回。いずれ岩手へ移住したいと考えるようになりました。

今と変わらず引っ込み思案な性格ですが、芯は強く、見た目とのギャップに驚かれる事もあります。
木と同じかも知れません。。。


【幼少期〜学生時代】 山と岩手に興味を持つ

子どもの頃から山で遊ぶのが大好きでした。
幼稚園の頃。夕方には、「魔女が拐いに来るから早く降りなさい」と大人から言われ間に受けた私は、それから夕刻の山を見ると恐怖を感じ、それが大人になるに連れて畏怖の念、神の存在を感じるようになりました。

小学校高学年の担任の先生はそれは素敵な方で、私たちのクラスに転入生・転校生があると、授業を潰して皆んなを率い、近くの山へ登りました。今で思うと学校側にも理解はあったのでしょうが、大変な事だったのではないかと思います。
皆んなと一緒に色とりどりの自然の色、匂い、風を感じ、それぞれのペースで思い思いに歩いたこの時間は、私たちに大切な感受性を与えてくれました。

また、小学校3年か4年生の時に社会の教科書に載っていたリアス式海岸を見てその自然の荒々しい造形美に惹かれ、岩手に興味を持つようになりました。

【社会人】 仕事にやり甲斐を感じられず悶々とする日々。山へ

音楽系の専門学校を卒業後、社会に通用する専門的な知識や資格が無かった私は、何となく事務職を選びました。なりたい職業も無く、稼ぐために働いていた感じです。虚しいと思う事もあり、そんな時は山へ登りました。「生きるという事」を感じたかったからです。

ある日の事。小学校の時に皆んなで登った「権現山(ごんげんざん)」の7合目あたりから、隣の「阿武山(あぶさん)」の登山道入口へ続く尾根伝いの山道があり、思い立って足を伸ばしてみました。阿武山の登山道は3つに分かれていましたが、「体協コース」「階段コース」は辛そうなネーミングだったので「西廻りコース」を選択。
暫くは美しい杉の木立に囲まれ、その人の手で整えられた様子を見て、「林業」という職業を意識し、密かに憧れを抱くようになりました。
しかし、仕事という物はそんなに甘くなく、力のない女性は採算性が合わず林業には就けないのだ、と思い込んでいました。

結局、その「西廻りコース」は最後に「地獄の西廻りルート」と呼ばれる所以の心臓破りの急斜面が待っていました…。地形の変化を痛感しながら息を切らしながら登りきり茂みから山頂へ姿を現すと、休息されていたおじい様2人組に「うわぁ!どっから登ってきたんや?!」と驚かれ、とんでもない事をしたんだと私も驚きつつ、少しお話しました。山は知らない人同士を自然に繋いでくれ、人見知りの私を少し解放してくれました。
その会話の中で聞いた、山頂から少し下った場所にある神社の存在。
古刹や古社が好きだった私はすぐに行ってみたのですが、その雰囲気に圧倒されてしまいました。目には見えないけれど、ここには何かがある。

阿武山山頂近くの貴船神社。何か大きな「力」を感じました


【上京から帰郷】2つの大きな自然災害と無力感

2009年春、思い切って上京し、埼玉から東京へ通い働きました。
距離が近くなったという事で、この年の誕生日、思い切って岩手へ行き、その自然と歴史文化の豊かさ、人の温かさに感動。
これも山が与えてくれた力が背中を押してくれた事もあったのだと思います。

そして、東日本大震災を経験。津波や原発事故もあり大自然を相手に無力感に打ちひしがれ、1年後に退職し帰郷。その2年後に2014年広島土砂災害が起こりました。

前の日の夜、今まで経験した事のない雷鳴と降り続く雨で何度も目が覚めました。
そして朝、弟から「無事だよ」というメッセージを添えて送られてきた、愛車が半分土に埋まった写真。すぐには状況が飲み込めませんでした。
弟家族が住む隣町の団地は阿武山の麓にあり、大雨により谷筋がことごとく崩れて土石流が流れ出していました。これは、その時の地元のテレビ局の記録です。
※ショックな映像が流れますので、閲覧にはご注意ください※

弟の家は、この団地の真っ只中にありました。同じ道路沿いの一番上に住まれていた、弟が引っ越して来てからお世話になった方は亡くなられ、その道を下り切った突き当たりの家も土砂を受け止め全壊しました。
祖母が時々「あの山は山津波があったんだよ」と話していました。この災害をきっかけに、昔からこの辺りは「蛇落地悪谷(じゃらくちあしや)」と呼ばれ、この地は山津波があるので住んではならない、と言い伝えられていた事を知りました。それがいつの間にか地名を変え大開発を経て団地に。以前山頂付近で参った貴船神社は、この辺りで暴れていた大蛇を現地の武将が退治し、3分割にしてそれぞれ祀った・・・という言い伝えの中の、頭部が祀られた神社でした。
災害後、元々あったものの機能しなかった砂防ダムをより大きくする工事が何年もかけて行われました。果たしてこれで防げるのか・・・東日本大震災の時に感じた無力感を思い出すとともに、昔の言い伝えを守らず山に手を入れる事に疑問を感じるようになりました。

【夫との出会い】自伐型林業の道へ

「山と自然に寄り添いながら、できる仕事はないだろうか」
そう思いながらもすぐに見付かるわけもなく悶々と過ごしていた時、同じ職場で今まで接点が無かった現在の夫と偶然話す機会があり、極力環境を破壊せず崩れない道を作りながら、間伐を繰り返し経済も循環させる「自伐型林業」という仕組みを知りました。山や自然が好きな2人は意気投合しお付き合いする事になり、やがて結婚。改めて林業に興味を持った私は、通っていた整体の先生を通じて林業会社の社長さんを紹介していただき、先生が企画、社長さんが講師として実家の庭でチェーンソー講習を開いてくださいました。

初めてチェーンソーを持って記念撮影。実家の庭にて


そうして林業への関わりを少しずつ深めていく中、2022年11月、主人に誘われて隣町で行われた自伐型林業の作業道研修に参加しました。講師は徳島県の橋本忠久さん。参加者の中には何名か女性もいらっしゃった事や、忠久さんのご両親はご夫婦で自伐型林業をされているという事を知り、夫婦で「林業へ転職する」という一大決心をし、勤めていた介護事業所を退職しました。


【移住先を求めて】四国一周の旅、地域おこし協力隊着任へ

退職して間もなく、移住先を探すため四国を一周しました。
NPO法人自伐型林業推進協会さんにお願いして、高知県佐川町でご夫婦で林業をされている地域おこし協力隊とOB2組との面談の場を設けていただき、かなり現実的な形が見えてきました。そして、前年にご縁をいただいた橋本忠久さんを訪ねて徳島の山を視察。杉と広葉樹が混じりその間に青々と低木が自生する山に作られた作業道。自然に寄り添う美しい現場を見て、目指す姿も固まりました。

爽やかな空気が巡り、程よく木漏れ日の差し込む美しい山

四国でも自伐型林業をミッションとする地域おこし協力隊を募集していました。
しかし、安定的に生活しながら夫婦で林業を学べるという条件には今一歩届かず・・・
悩んでいた時、2月にオンラインで見て興味を持った岩手県一関市の地域おこし協力隊の募集要項がまとまりました。それは私たちが求めていた条件だったので、すぐに担当の方にコンタクトを取り、5月に現地で視察、翌月書類審査、現地で面接…とトントン拍子に進み、めでたく採用となり、バタバタと引越し作業を済ませて7月6日に今住む京津畑へ引越し完了。翌7日に任命式があり、晴れて夫婦で一関市地域おこし協力隊となりました。
翌々日の8日からはさっそく自伐型林業研修が始まり、慣れない作業ともう一つのミッションである「空き家改修」に追われ、今日まで矢の如く走り抜けました。

これが、内気な私が林業を目指し移住をするに至った経歴です。
不思議なご縁あって念願の岩手へ移住しやっとスタートラインに立てましたが、これからが本番です。
任期満了までに、「自伐林家」と名乗れるように、これからも日々精進していきます。

とても長くなりましたが、最後まで読んでいただいてありがとうございました!!

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