私にとっての「障害」と、京大リアルゼミ。
私には重度の知的障害のある弟がいる。
つまり、わたくし、ペンネーム「ムシキング」も、前々回の記事をかいてくれた「八方美人」くんと同じく、兄弟姉妹に障害者のいる健常者、"きょうだい児"である。
私と障害 〜少年時代〜
多くのきょうだい児が、小さな頃に障害に対する何らかの差別を見聞きし、傷つき、障害のある兄弟姉妹のことを隠すようになる一方で、私はずっと弟のことを公言し続けてきた。
「弟おるんやけど、知的障害あるんよねー笑」
この言葉を発する時はいつも、なるべく明るく、なんの躊躇いもないかのように見せることを意識した。こちらが先に、弟に知的障害があることを正々堂々と話すことで「舐められない」ようにしつつ、なるべく相手が反応に困らないような絶妙な言い方をいつも探していた。いつしかそれは諦めに変わっていった。
家族に障害者がいないのに、障害者のことなんか分かるわけがない。
分かったような口も叩かれたくない。
だから、周りが「ガイジ」という言葉をスラングのように使うのも仕方がないことなんだ。
ええやん別に、俺とか俺の弟に対して言われてる訳じゃないんやし。
そうやって心のザラザラした感じをうまく抑え込めていた(と思っていた)ので、福祉や特別支援教育にはあまり興味がなかった。
不真面目な生徒で、中学校では1年間の不登校を経験し、高校でも音楽ばかりしていた。昔から日本史オタクであること、バンド活動など人前に出ることが好きなことを考慮し、あわよくば日本史の研究者、無理なら社会科の先生になりたいなあなどとぼんやり考え、教員養成系ではない学部の教育系学科という、なんとも中途半端なところに進学することになる。
(小学校低学年の私と1歳前後の弟)
私と障害 〜相模原事件〜
地元より遥かに都会である京都の大学に進学し、念願の一人暮らしをして、それなりにサークル活動も頑張り(音楽と写真)、日本史を中心に人並みよりは真面目に学んで、それなりに恋も楽しんで、いわゆる「大学生」をできていたと思う。
しかし一方でどこか虚無感も感じていた。このまま何となく卒業し、地元に帰って就職して、結婚して、そうやって幸せに老いていくことも悪くないなと思いつつ、学問にも、音楽にも、写真にも、それなりの情熱しかない自分にもどかしさを感じていた。
相模原障害者施設殺傷事件が起こったのは、そのようなモヤモヤが膨らみ続けていた大学三年の夏だった。
これを読んでいる人はこの事件に対してどう思ったのだろうか。自分はどうだったのかを今振り返ってみても良いのだが、私が当時書いた稚拙な文章がFacebookに残っていたので、あえて全文掲載してみる。
世界的に見ても稀な事件が起きました。障がいに関する話題には言葉にならない感情が溢れるので普段は何も書かないのです。しかし今回はあまりに事件が凄惨すぎ、心が空っぽになりました。家族だからこそ客観的に、諦観的に見てしまいますが、湧き出てくる感情はただただ希望のない世の中だなとという空虚な感情です。障がい者でなく健常者が同じ人数亡くなる事件ならばもっと大きな報道になったのではないかと思ってしまうのは僕だけではないでしょう。
可哀想とか犯人は頭がおかしいなどという誰にでも思いつく感想に留まらずこの事件を機会に障がい者施設に関心を持ち、施設に対する議論の契機なってくれればと思います。自立支援の名の下全国の公立障がい者施設が削減、あるいは廃止になることを果たして何人の健常者が知っているでしょうか。自立、隔離、支援、社会参加、この辺りがごちゃまぜのまま進められている気がするのです。今回の事件では『重度の』知的障害を持っている方のコメントが上がっていますがほとんど単語しか喋れない知的障害を持っている人もいくらでもいます。その人達に自立を迫り施設を提供しないというのは家族でなんとかしてくれと押し付けるのをロジックの逆転で聞こえがいいものにしているようにしか感じません。
少しでも弔いになるのはそういった本当に弱者の人たちのためになる報道だと思うのですが、なにぶんこの国とこの国の報道とこの国の国民性はこの手の福祉には関心が低いのであまり期待できないのが現状です。美しさに対する感受性はどこまで削ぎ落とされていくのでしょうか。
(2016年7月28日)
「どういう意図で『障がい』の表記にしてんの?」とか、「美しさに対することばが全然足りないよ」とか色々言いたいことはあるが、「心が空っぽになった」という感想に関しては、今振り返ってみても事件に対する私の心をかなりうまく表現してくれている。
本当に感情が湧かなかったのだ。喜怒哀楽を超越し、色も匂いもしない感情。何にも無いので、考えようもない、感情も持てない。何も分からない。何が分からないのかも、分からない。
毎年、私は夏期休暇に青春18切符を使って旅をしていた。2016年には、自然と相模原へ足が向いた。
京都から約9時間電車に乗り、相模湖駅で降りる。山あいの小さな駅で、人はまばらだった。
どうもやまゆり園まで徒歩で行くのはきつそうだったので、バスを使うことにした。一時間に一本ほどしかないバスに急いで乗り込み、相模川沿いに山を上がっていく。10分ほど走ると、やまゆり園の白い建物が見えた。バスを降り、近くの小さな花屋で菊を買い、献花台へ向かう。
(2016年9月8日撮影)
小さな献花台にはちらほらと献花が置かれていた。私もそこに花を置き、合掌する。しかし、ここでも感情は無かった。本当に、何も分からなかった。
私と障害 〜就活から研究へ〜
京都に戻り、私はこの分からなさに対して答えてくれるものを探し始める。
専門に引き付けて考えてみようと思い、日本思想史・教育史の本を読んでみた。福子思想(障害者の生まれた家庭には福が来るという民俗思想)や城戸幡太郎など、興味を持てるものはあったが、やはりなんだか分からない。
哲学にも挑戦してみた。「理性」という言葉に強い引っ掛かりを感じたりしつつ、やっぱりなんだか分からない。
社会福祉にこそ答えがあるような気がして、障害学の教授について回り、知的障害を持つ人々が多く通う通所施設でアルバイトもした。今まで一番学びがいはあった。だけども、やっぱり何だか分からない感じは残り続けた。
気がつけば留学を経て大学5年目になっており、就活もしてみた。
「障害を解決したい」という分かりやすいテーマを掲げ、社会課題解決を掲げるベンチャー、国内トップの教育関連企業、テレビ局や新聞社などのマスコミなどなど、様々な会社でインターンや採用試験を受け、いくつか内定も貰えた(第一志望には落ちたが)。
しかし、ここに至っても何だか分からない感じは残り続けていた。
「障害を解決したいって口走ってるけど、そもそも障害って何なんやろ」
「私にとっての障害」さえ、分かっていない自分。
いや、その「私にとっての障害」こそが、私が知りたいものなんじゃないか。
小さい時は「障害」に対して諦めのような感情を抱き、相模原の事件の後は「何にも無い」としかいいようのない感情を持った。
このように感じ、考えている自分を見つめ、それを言葉にしていかなければ、「私にとっての障害とは何か」というスタートラインにすら立てない。
半ば衝動的に内定を辞退し、半年弱がむしゃらに勉強した。
研究テーマは「知的障害者のきょうだいの『障害』に対する『ある感じ』とは」。いわゆる当事者研究的な研究である。
穴だらけの研究計画書だったと思うが、とにかくこういうことを研究したいんだという気迫が教授に届いたのか、何とか大学院(人間・環境学研究科)に進学でき、今に至っている。研究の話はまたいずれ。
(まとまりのない本棚の一部)
私と障害 〜セルフドキュメンタリー〜
研究とリアルゼミ以外では、映画作りを通して「私にとっての障害」に迫ろうとしている。
撮る対象は、弟と、自分自身。神戸・元町映画館にある、アマチュアがドキュメンタリーを作る制作集団「元町プロダクション」に所属し、ドキュメンタリー映画監督・池谷薫氏から厳しい指導・プロデュースを受けつつ、1年間に渡って制作を続けた。
現在はまだオンライン試写という形で意見や感想をいただきたい方にだけ見ていただいているが、映画のプロ・アマ、障害者との関係の有無を問わず、高い評価をいただいている。映画の話も、またいずれ。
私にとっての京大リアルゼミ
私にとってリアルゼミは、このようなつらつらとした「分からなさ」を話し合い、共に考えあえる場所だ。
自分の専門を一歩出れば、障害になんて誰も興味ないだろうと思っていたが、京大ゼミの運営はどちらかというと障害と関係のない学部学科の学生が多いし、ゼミもまだ決まっていない学部2回生も多い。
まだハタチにもなってない人も多いのに、みんな自分に対して真摯で、自分のモヤモヤも言葉にできるし、人間もできているし・・・本当に頭が下がる。
リアルゼミの主な目的は、当事者の方に来てもらって自らを語ってもらい、その話を学生が直接聞き、肌で感じ、自分自身を見つめて考えてもらうことだろう。
しかし、運営同士のリアルゼミの価値とは、「普段友達と話せない、ひかれちゃう」、「1人では見つめるのが怖い」、「何が分からないのか分からない」、このようなモヤモヤした感じを共に見つめていけることだと、私は感じている。
立ち止まったり、悩んだり、来なくなってしまったりしつつも、完全に縁が切れるわけではなく、いつでも戻ることができ、一緒に安心してモヤモヤできる場所。
コロナ禍による自粛期間だからこそ毎週zoomミーティングをしているうちに、ようやくそういう場になってきたなあと、最近はあったかい気持ちになっている。
(楽しそうなリアルゼミ中の私)