「結局は法律にしないとだと思う。」~第4回盲ろう振り返り~
「結局は法律にしないとだと思う。」
福島智先生がおっしゃった中で、僕の印象に一番残ってしまった言葉である。
意識改革、パラダイムシフトしてもらうにはどうしたらいいか―、みたいな質問への答えだった。
これは僕が法学部生だからといえばそうだ。そうか、法律か、なんて思ったのだ。だがその身もふたもない言い方と答えは、なんか心に残った。
法律ってのはすごいもので、法律にするだけでなんでも、日本全国どこに行ってもこれがルールになるのである。そりゃそれが法律になれば、その法律を守らざるを得ない。それが正しくて、それが一番合理的だということになる。その辺の説明はすっ飛ばすが。
だからこそ、その法律でしか意識改革みたいなことは出来ないのかぁ、と思ってしまったわけだ。
法律にしたところで、そこにすべてを書くことは出来ないし、意見がまとまらなければぼやかして表現する。さらにそこから解釈を重ねることもする。すべてを書けるとしても、何が正しいかを判断するのも難しい。
そんなわけで、法律にしてしまうのが最善手らしいが、それも難しいみたいな感じだ。
障害の個人モデルと社会モデルの、そのあたりのパラダイムシフトの話である。
福島先生には、盲ろうの当事者としての、幼少期からのライフストーリーを語っていただいたわけだが、派生して、コミュニケーションってどうする、障害ってなんだ、みたいな話になった。
コミュニケーションについての話も興味深い。指点字の話がその一部だ。
盲ろうの状態では会話にオンタイムで参加するのは難しい。場の状況、話し手の理解など、話の内容以外にも、コミュニケーションには重要なことが多々ある。
福島先生が使う指点字では、だれだれが笑ったとか頷いたとか、逆に見落としがちなことまでも、通訳者を介して伝わっていく。両手の指を重ねて、点字タイプライターの要領で、指に文字を写す―
障害ってなんだ、という問いは、このゼミにいるといつも付きまとう問いである。参加して1年半、いまだによくわからん。
毎度毎度話を聞いて、その都度考える。毎度毎度答えも違う。正解も知らない。考えすぎだろうか―
また、障害の個人モデルと社会モデルの話について。どちらがいい、間違っているということはない。
社会、社会と個人の間に問題が介在する―、と言われて、思い当たる場面はある。でもすべてがそうか? 障害者ってどうなる?
どちらも認めるしかないと僕は思う、どちらも認めないといけないと僕は思う。正解ってなんだ? どちらでも語りつくせないと福島先生は言った。
そこで新しいモデルとしての“実存モデル”、これを提唱されている。また詳しく知りたいものである―
何が正しくて何が間違っているのか、何が一番的を射ているアイデアなのか、各人の感覚で答えが違い、一義的ルールにはしにくい。だからたぶん、法律にはできない。できたところで、それで解決はしない。
まあ、法律で解決してしまったら、こういうゼミをやっている意味もなくなってしまうと思うので、何とも言えないが。法律にできるようにするためにこういうゼミがあるといえるか?
もやもやして、うまくまとまらなくて、ゼミのコンセプトを一人体現した感じだ。
どうか伝わってくれ。
遅れながら第4回の振り返りです。
檸檬でした。