【京都歳時記】初愛宕 愛宕神社
初愛宕
1月24日は『初愛宕』という1年で最初の愛宕の縁日で、京都嵯峨の愛宕山頂にある愛宕神社の祭事です。愛宕神社は、火伏せの神として知られ、初愛宕は特に参詣人が多い。神社から「火廼要慎」と書かれたお護符と梱(しきみ)の枝をいただいて帰ります。
愛宕というと、京都のかなりのお宅に貼られている「火廼要慎」というお札と、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』にも、そして、『浄瑠璃・糸桜本町育』にも登場する「伊勢へ七度(ななたび)、熊野へ三度(みたび)、愛宕様へは月参り・・・」を連想します。
古くから『愛宕権現』の名で親しまれ、多くの信仰を集めた愛宕山は、比叡・比良・伊吹・神峰(しんぽう)・葛城・金峯(きんぷ)とともに『七高山』と呼ばれていた霊山でした。
桓武天皇が、怨霊から身を護りたい一心で究極の魔界封じをほどこした京の都では、東の比叡山とともに、西の愛宕山が王宮守護の神とされていました。
また、大覚寺の僧侶も昔は修行したと言われる修験の道場でもあります。
京都では、3歳になった子供が、この愛宕山にお参りすると、一生涯、火からの災難に遭わないとされていたり、7月31日の『千日詣り』の日に参拝すると、日頃の千日分の御利益があるとして、現在でも多くの信仰を集めています。
愛宕神社までは、参道というより登山口からおおよそ4キロ、大人の足で2時間半ほどの道のりです。
昔は、ケーブルカーがあったようです。いまも、その跡が残っています。
愛宕神社とは
全国に約900社を数える愛宕神社の総本社として、京都市最高峰の霊山である愛宕山上に鎮座します。親しみを込めて「愛宕さん」とも呼ばれています。
古くより比叡山と共に信仰を集め、神仏習合時代は愛宕権現を祀る白雲寺として知られました。
古くより火伏・防火に霊験のある神社として知られ、京都府内はもとより近畿地方を中心に全国から参拝者が絶えません。
その創祀年代は古く「愛宕山神道縁起」や「山城名勝志」白雲寺縁起によると大宝年間(701~704)に、 修験道の祖とされる役行者と白山の開祖として知られる泰澄が朝廷の許しを得て朝日峰(愛宕山)に神廟を建立しました。
その後、天応元年(781)に慶俊が中興し、和気清麻呂が朝日峰に白雲寺を建立し愛宕大権現として鎮護国家の道場としたと伝えれます。
『愛宕大権現』の名で親しまれ、多くの信仰を集めた愛宕山は早くより神仏習合の山岳修業霊場として名高く、9世紀頃には七高山(比叡・比良・伊吹・神峰(しんぽう)・葛城・金峯(きんぷ))の一つに数えられました。
神仏習合の時代には、真言宗の白雲寺を別当寺として、勝軍地蔵・泰澄大師・不動明王・毘沙門天・竜樹菩薩の五尊をお祀りしていました。本殿に本地仏である勝軍地蔵、奥の院(現・若宮社)に愛宕山の天狗太郎坊が祀られ、 境内には勝地院、教学院、大善院、威徳院、福寿院等の社僧の住坊が江戸末期まで存在していました。
明治初年の神仏分離令で白雲寺は廃絶、愛宕神社となり現在に至っています。
本地仏であった勝軍地蔵は神仏分離令の際、金蔵寺(京都市西京区大原野)に移され現在も大切にお祀りされています。また、平成15年9月28日には、愛宕神社御鎮座1300年祭が執り行われました。
勝軍地蔵とは
明治以前に本地仏であった勝軍地蔵、あまり聞きなれない仏さまですが、どんな仏さまなのでしょうか。
その字の通り、「勝つ」ということをご祈願する仏さまです。
一説に、坂上田村麻呂が東征のとき、戦勝を祈って作ったことからおこったという地蔵菩薩。鎧、兜をつけ、右手に錫杖を、左手に如意宝珠をもち、軍馬にまたがっている。これを拝むと、戦いに勝ち、宿業・飢饉などをまぬがれるという。
金蔵寺の勝軍地蔵
金蔵寺は718年(養老2)元正天皇の勅願で創建された天台宗の古刹。現在の建物は桂昌院の再建。山の斜面、石垣と石段の間に堂宇が建ち並ぶ。高さ約12メートルの産の滝、鳥帽子岩、などがあり、眺めもすばらしく、特に紅葉シーズンはとても綺麗です。
愛宕山白雲寺(現・愛宕神社)の本尊(愛宕大権現の本地仏)として祀られていた勝軍地蔵は現在、大原野にある金蔵寺に安置されています。この勝軍地蔵は毎年4月23日の御開帳があります。午前中のみの御開帳です。
大きくはないお地蔵さまですが、甲冑を付け、宝剣を持たれています。明智光秀が本能寺の変の前日に先勝祈願したと伝わっています。
「愛宕の三つ参り」といって、3歳までに参拝すると一生火事に遭わないと言われています。また、7月31日の『千日詣り』の日に参拝すると、日頃の千日分の御利益があるとして、現在でも多くの信仰を集めています。