【京都歳時記】泉山七福神めぐり
泉山七福神めぐり
泉涌寺山内の7か所の塔頭で、毎年成人の日(今年は1月13日)に行われます。
ご存じの通り、七福神信仰は室町時代の京都が発祥とされ、それが全国に広がっていったといわれています。とりわけ新春の七福神めぐりは、「七難即滅、七福即生極まりなし」といわれ、一年で一番功徳が大きいとされており、さらに、神様をお迎えしている松の内に行うと特に良いと言われています。
泉山七福神巡りは1951年(昭和26年)より毎年成人の日に行われており、新春恒例の行事として年々盛大になっています。
泉山七福神巡りは、即成院(福禄寿)には長寿・幸福、戒光寺(弁財天)には商売繁盛・芸能上達、観音寺(恵比寿神)には商業繁栄・海運守護、来迎院(布袋尊)には知足福・家業繁盛、 雲龍院(大黒天)には福徳、悲田院(毘沙門天)には財宝自在、法音院(寿老人)には長寿・健康、新善光寺(愛染明王)に敬愛和合、泉涌寺(楊貴妃観音)には良縁・諸願成就のご利益がある九ヶ所(久福神)を巡ります。九福神の「九」は中国において最大の吉数を表し、「久しく」福が続くようにという意味があります。
参拝のしかた
まず泉涌寺の一番手前にある即成院で福笹(300円)を受け取ります。常緑で垂直に伸びる竹から取った福笹は「商売も運勢も上向きに」という意味があります。その福笹に福神それぞれの吉兆(一体300円~)をつけながら福を集めていきます。すべての吉兆をつけた福笹を持ち帰ることによって、本来の福を持ち帰るということになります。
一番:即成院、福禄寿、長寿・幸福
二番:戒光院、弁財天、商売繁盛・芸能上達
番外:新善光寺、愛染明王、敬愛和合
三番:今熊野観音寺、恵比寿、商業繁盛・海運守護
四番:来迎院、布袋尊、知恵袋・家業繁盛
五番:雲龍院、大黒天、福徳
番外:泉涌寺本坊、楊貴妃観音、良縁・諸願成就
六番:悲田院、毘沙門天、財宝自在
七番:法音院、寿老人、長寿・健康
塔頭
即成院
泉涌寺総門前北側の即成院は、伏見長者と称された橘俊綱の創建で元伏見大亀谷に所在したが、明治維新の廃仏毀釈で無住となりました。そのため、泉涌寺塔頭で本寺の法安寺と合併し、明治35年(1902)、現在地で再興されました。
境内には、屋島の合戦で知られる源義経の臣・那須与一宗高の墓が祀られ、『願いが的へ』と願い事を扇に書いて祈願される方が多数お参りされます。
戒光院
戒光寺は、鎌倉時代安貞2年(1228)宋から帰朝した浄業曇照が大宮八条の東堀川の西に創建し、後堀河天皇の勅願所となった。その後一条戻り橋の東に移り、更に三条川東を経て、正保二年(1645)現地に移され再興された。本尊・釈迦如来立像(重文)は一丈六尺を越え(約5.4m)総高約10mの大像で、運慶湛慶父子の合作である。本像を始め光背・台座も同時代のもので、蒔絵彩色も良く残り、宋風の類稀な鎌倉時代彫像である。後陽成天皇皇后中和門院の御信仰、後水尾天皇の守護仏としても朝野の崇敬篤く、「身代わり丈六さん」の名で庶民の篤い信仰をうけている。開山曇照津師像は鎌倉期の祖師像。重要文化財に指定されました。
七福神めぐりの日には、秘仏の泉山融通弁財天像を御開帳いたします。
新善光寺
寛元元年(1243)8月、僧・値願念西が歓進し、後嵯峨天皇の御願寺として一条大宮の地に創建されました。勅命によって大工藤井為行、小工沙弥教弘らが信州信濃善光寺本尊と同体の全銅阿弥陀如来立像を鋳造して本尊とし、新善光寺と呼んだ。
南北朝、室町時代に入ると庶民の崇敬を受け、寺領も整って寺勢は盛んであった。しかし応仁の乱で灰燼に帰し、文明5年(1473)泉涌寺山内に移建、孤雲正瑞の再興により現域に落着くのは寛文年中である。
今熊野観音寺
観音寺は、初め東山観音寺と称したが、後白河上皇が永暦元年(1160)、新熊野社を勧請創建された際、改めて新那智山の山号を寄せられ、今熊野観音寺と称することになったという。
斉衡2年(855)創立の法輪寺のあとともいわれるが、後白河上皇以来の御尊祟は甚だ篤い。寺伝で弘法大師の作といわれる本尊十一面観音像は、脇士不動明王、毘沙門天像とともに篤い信仰をあつめています。
来迎院
弘法大師が唐土で感得した三宝荒神を奉安して開いたと伝えられ、今も大師ゆかりの独鈷水がある。400年後の健保6年(1218)、月翁智鏡(がっとうちきょう)長老が堂宇を開創して泉涌寺子院とした。高所に建つ広幅殿荒神堂には、木像荒神坐像一躯・木像護法神立像五躯(共に重文)が奉祀され、古くは皇后宮の安産祈願所となり、現在も信者が多い。また本堂に霊元天皇の御念持仏であった幻夢観音菩薩坐像も祀られています。
雲龍院
本坊南の高所に位置する別院雲龍院は、後光厳院の思召しによって、竹巌聖皐(しょうこう)が開いた寺で、皇子・後円融院はここに如法写経の儀を興そうと寺領を寄せられた。
また後小松、称光の両天皇もこの寺を崇敬され、四天皇崩御の後は後山に御分骨所が営まれ、北朝歴代の御尊牌が霊明殿に奉安されている。本堂(重要文化財)安置の本尊・薬師三尊(藥師・日光・月光)は極めて写実的な鎌倉時代の作、また「走り大黒天」は有名です。
楊貴妃観音
大門を入って左手奥の堂で、六羅漢像の中央に聖観音(楊柳観音)が安置されています。聖観音は湛海律師が寛喜2年(1230)に南宋から請来した木像です。像容の美しさから、玄宗皇帝が亡き楊貴妃の面影を写させて造像したとの伝承を生み、江戸時代初め頃から「楊貴妃観音像」と呼ばれ信仰されています。特に彩色が多く残り、生けるが如くに端坐する御姿は、その名に相応しい尊像です。多くの女性から美人祈願の観音様として親しまれています。
悲田院
聖徳太子が身寄りのない老人や放置されている子供を収容する施設として造られたのが悲田院の始まりといわれる。延慶元年(1308)無人和尚がこれを一条安居院に再興し四宗兼学の寺とした。
後花園天皇はこの寺を勅願寺とされ、崩御の時には当寺で御葬儀や荼毘が行なわれた。これより当寺住職は代々天皇の綸旨を賜わり紫衣参内が許された。正保3年(1646)、高槻城主・永井直清が現在地に移建し、如周和尚を迎えて住持としたのが現在の悲田院である。その後、明治18年(1885)、塔頭寿命院と合併再興され、本尊は阿弥陀如来です。
法音院
寺伝によれば鎌倉時代末の嘉暦元年(1326)無人如導によって山内に創建されたという。規模や経過の詳細は知る由もないが、「古伽藍図」にもその名が見えている。更に天正年間の記録にも法音院分朱印地は記されている。江戸時代の初め泉涌寺再興とあい前後して諸塔頭もその威容を整えたが、当院は寛文4・5年(1664・1665)幕府及び本多正貫・同夫人の支援を得、覚雲西堂の手により、現在地に移し再建された。本尊は不空羂索観音で、現在の本堂は英照皇太后の御須屋を賜わったもの。
泉山七福神めぐり
開催日時:毎年成人の日 8:00~16:00
開催会場:東山区泉涌寺山内町27 御寺 泉涌寺 山内各寺院
拝観料 :伽藍拝観¥500(中学生以下は小人料金¥300) 特別拝観¥300(小学生以下は同伴者がいる場合は無料)
アクセス:JR奈良線・京阪本線東福寺駅下車 徒歩15分
泉涌寺では、コロナ禍の令和4年にオンライン授与を開始しました。これが非常に好評ということで、以降、毎年オンライン授与を毎年行うようになりました。