【京都検定学習帖】二条城 #0.7 *
18時になりました。
では昨日の解答です。
二条城を学ぼう
テキストから
解答は【太字】
1.二条城は、北が(【竹屋町通】)、南が(【押小路通】)、東が堀川通で画されている。
2.(【徳川家康】)が征夷大将軍の宣下を受けるに際し、その居城として築かれたもの。
3.着工前に建設予定地の立ち退きが行われ、その様子は(【義演准后日記】)に記録が見える。
4.総奉行(【板倉勝重】)、大工頭(【中居正清】)、縄張り(【藤堂高虎】)
5.伏見城で征夷大将軍の宣下を受けた徳川家康は、(【拝賀の礼】)を挙行するために二条城へ入城した。
6.元和六年(1620年)、徳川秀忠の娘(【東福門院和子】)が後水尾天皇の女御として入内した。
7.寛永三年(1626年)後水尾天皇が二条城へ行幸するにあたり、大規模普請が実施され、天守閣は(【淀城】)へ移された。
8.国宝の二の丸御殿は(【書院】)造で、遠侍、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院の 6 棟 が雁行形に建ち並ぶ。
9.御殿は幕府御用絵師である(【狩野探幽】)率いる狩野派が描いた障壁画で彩られている。
10.築山林泉式の二の丸庭園は国の(【特別名勝】)に指定されている。
11.この時の拡張工事の作事奉行を務めたのは(【小堀遠州】)である。
12.二条城には江戸時代初期、将軍の上洛に備えた警護として(【二条城代】)が置かれた。
13.その後、元禄十二年(1699年)に廃止され、職務は(【二条在番】)が受け持つことになった。
14.現在の本丸御殿は(【桂宮本邸】)より移築されたものである。
15.明治元年(1868年)、明治政府によって接収され、明治四年から(【京都府庁】)として活用された。
発展問題
★二条城南に位置する、平安京造営の際の禁苑であった、現在、東寺真言宗の寺院は 【神泉苑】
★二の丸御殿の正門である国宝の門は 【唐門】
★二の丸御殿の北にある池泉回遊式庭園は(【中根金作】)により作庭された(【清流園】)である
★その池泉回遊式庭園にある茶室(【和楽庵】)は、江戸時代初期の京都の豪商(【角倉了以】)の屋敷から移築されたものがもとになっている
★拡張工事で出来上がった二の丸庭園は、中国三国時代の知将である諸葛孔明が考案した陣立てにちなみ(【八陣の庭】)と名付けられた。
おまけ
過去問
二条城には将軍上洛の際の警護役として二条城代が置かれたが、長く上洛が途絶えたため、元禄12年(1699)に廃止された。代わりに江戸から派遣された武士の職名は何か。 【二条在番】
(2024年第25回1級)
明治4年(1871)から18年(1885)まで、二条城の二の丸御殿(国宝)を使用していたのは。 【京都府庁】
(2024年第24回3級)
徳川家光の時代に二条城二の丸庭園を改修した奉行は誰か。 【小堀遠州】
(2024年第24回3級)
豆知識
二条城の天守は、慶長7年(1602年)、廃城となった大和国の郡山城から移築。
寛永行幸の際、大改築が始まり初代天守は淀城へ移築。
2代目天守は、廃城となった伏見城の天守が移築された。
※郡山城は、来年の大河ドラマ「豊臣兄弟」の主人公 豊臣秀長の居城。
二条城代 → 二条在番(交代制) → 二条定番(常勤制、文久2年(1862年)設置)
京都所司代:朝廷の監視および折衝を担当
京都守護職:文久2年(1862年)に将軍後見職、政事総裁職とともに設けられた江戸幕府の三要職の一つ。大阪城代、京都所司代、京都・大阪・奈良・伏見の各奉行の上位。
元来、江戸幕府においては京都所司代・京都町奉行が京都の治安維持の任についていたが、過激派による天誅(要人暗殺)や商家への押し込み(強盗)などの騒乱が横行し、所司代・奉行所のみでは防ぎきれないと判断した幕府が、京都市中(洛中)の治安維持及び御所・二条城の警備などを担う役割として設置したもの。
さいごに
記事タイトルの「*」は解答掲載記事を意味します。
本noteは皆さんの京都検定合格を応援します!!
一緒に京都検定合格を目指しましょう。