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記憶を辿る2

『 死ぬまで挑戦 』

株式会社 山城 三代目 稗 真平 / 1977年6月30日生

1970年当時、日本は高度経済成長期の真っ只中。

生業だった縫製業もイケイケドンドンで、業績は右肩しか上がらない状態だったようだ。そんな中、今でいう京都の田の字地区で生を受けた私は、待望の長男ということもあり、全家族からの愛を傍受しスクスク育っていった。

大きな掌から、滑り台のようなもので母のお腹に入った記憶がある、訳はないが、近所の街並みの多くは記憶している。いまの富小路三条にある会社の前には、コロラドという喫茶店、生地を業者に売る卸の店や紳士服、そして居酒屋に旅館が並んでいた。後に蕎麦屋やケーキ、雑貨に自転車屋といったように変わっていった思い出も、別の機会に綴っていこうと思っている。

山城を70年前に創業した祖父は、元々着物地を扱う営業マン。
手に覚えのある祖母がレザージャケットやシャツを縫製し、生計を立てていたが思うように生活は向上しなかったようだ。転機が訪れたのは、得意先だった竹村商店(現アズ)からのお声がけがきっかけだった。
小千谷ちぢみなどに代表される麻を使った楊柳素材。
これが本家本元になると思うが、それを模したエンボス加工(型押し加工)が生まれ、麻だけでなく綿生地にも応用が効くようになり、小ロットで高級品だった下着が一気に量産化されるようになった。これがクレープ肌着と呼ばれる物で、一般層に楊柳生地の下着がクレープ肌着として広がっていったのだった。

そのクレープ肌着の旗手メーカーとしての竹村商店があり、繋がりのあった祖父が誘いを受け、縁もゆかりもない大分県に工場を構えるまでに至るのである。この時の祖父は齢50を越えていた。なんとか現状を突破したいという思いでいっぱい、関西弁でいう必死のパッチだったんだと思う。

意を決してからは時流を上手く掴み、現在の京都本社、国東と武蔵にある2工場だけでなく、人は死ぬまで挑戦なんだぞという教えも後世に残してくれた。余談だが、大分に移住してからの祖父は才能を開花させ、シニアゴルフトーナメントで優勝したりするバイタリティも発揮している。

株式会社 山城
〒604-8074  京都市中京区富小路三条下ル朝倉町539番地
WEB SHOP : http://yamashiro.biz

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