記憶を辿る66
『 サンフラワー 』
山城のトラックを父親が運転して出発した小さい頃と違い、今回は単独で大分工場までの旅となるのだが、行き慣れた土地だったからだろう。なんの不安も感じることなく関西汽船が運行するサンフラワーの係留場である南港に向かった。
当時、父親が出張で家を出る際、決まって母親が渡していた物がある。
それは”三嶋亭の細切れ肉”である。
初代が不憫に思った”豚のスキヤキ“ではないが、コレは必須で渡していて、私が出発する時も同様に持参させた。それと幾許かの小遣い。全ての荷物を載せ終わった後、サイドミラーに写った母親の姿は涙を堪えていたように思う。
今生の別れではないが、大分の地であっても母親とはこういうものだ。
カーナビもない時代だったが、1号線から名神へ。
名神から環状線を乗り継ぎ、阪神高速をひた走る。
小さい頃の記憶では、どこかのインターチェンジで同業のトラック仲間と合流し、仲間は環状線の本町で。父親は南港に向かう道すがら手を振り合っていた思い出深い環状線だったから迷うはずもなかった。
阪神高速を降りても馴染みがある所ばかり。
サンフラワーの食事は高いからと言って、南港のどこかにあった商店街で買う”巻き寿司”や”焼鳥”など。まるで父親の行動をなぞるかのようにして係留場に着く。着いても勝手知ったる乗船方法である。
太陽の半円が海面から出たようなロゴマークのサンフラワーだが、私にとってみると慣れ親しみすぎた大型船だ。写真撮影に勤しむ親子などを尻目に車検証を片手に乗船準備を整える。
いつだったか偏った積載で船が横転してしまった大事故があったが、大型船の根幹であるこの乗船作業はプロが手招きする車から乗り込んでいく。船に乗り込み、車を降りると重油と潮の香りが入り混ざった独特の懐かしい匂いが漂っていた。
苗字が珍しいあるあるなのだが、久しぶりに乗ったサンフラワーのデッキ担当は覚えてくれていた。
「お父さん元気にしたはるか?」
「めっちゃ大きなったやん、幾つ?」
「相部屋価格で個室にしたげるしな」
こんな風に今ではすっかり風前の灯となったサービスで私を取り扱ってくれた。
今思えば、こういう一連も親の傘の下で生きていた証拠なんだと思う。
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