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記憶を辿る7

『 河原町のジュリー 』

正真正銘のバカを突き進んでいた幼稚園時代、わたしはお母さんたちに、「豆タンクちゃん」と呼ばれていたそうだ。豆のように小さくコロコロとして、タンクトップを着ていそうというイメージらしい。

馬鹿にしているのか?

いや、ほのぼのと絵を描きながら、おにぎりを食べてそうな愛されキャラだったのだ。幼稚園というと可愛い盛りである。小学校とは違い、他人の子も自分の子のように可愛く、成長が楽しみに思ってしまう自分がいるからきっとそうだろう。


さて話を当時に戻すと、京都にはジュリーが2人いた。

「勝手にしやがれ」と「勝手にしやがった方」のジュリーだ。
しやがった方のジュリーは河原町がステージ。当時は有名人だったからご存じの方も多いはず。死語で言うと乞食。その類は、放つ匂いやコーディネートで嫌煙されがちなのだが、なぜか京都では愛されていた。

鴨川の橋の下では、まだまだブルーシートの家だけでなく本格的な家があった時代だ。その中で名前が付けられるぐらい有名だったのだから、なかなか稀有な存在だったんだと思う。

そんなジュリーに登園の際、毎朝会った。

噂が噂を呼び、大金持ちだからルンペンを気取っているとか、奥さんに逃げられたからなどと大人達は言っていた記憶があるが、嫌でも寺町三条あたりで毎朝会って、目が合うのだから覚えてしまう。

そんなジュリーに、蒸し暑い夏の生祥公園で話かけられた事があった。
生祥公園と会社は走れば30秒ほどの距離。母親がすぐ戻るからと会社に戻り、公園の砂場で遊んでいた時だった。声をかけられた私は、即座にアイドルじゃないジュリーだと認識できた。そしてオープンマインドだったのだろう、友達感覚のように彼から逃げようとはしなかった。
会話はあったのだろうが覚えていない。
そんな彼がおもむろに、抹茶味のチョコレートを私に渡した。
当時、茶道の先生の資格を持つ母がたまに食べていたチョコで、私は苦手な味だった。
父親が使っていた整髪料のような匂い味がしたからだ。他府県の方からみれば、憧れの有名店が軒並みある京都に生まれ育ったが、私は今でもあまり抹茶は好ましくなく、そういった店に行くこともない。
まぁ正しくいえば”抹茶味”や”抹茶風”が苦手なのだが…。
基、ジュリーから渡された抹茶チョコは、毎朝会っているからこそのスキンシップだったのか、私は喜ぶことができなかった。その風態が原因ではない、まるでマジックのようだったからだと思う。
私の反応が薄かったのか、取り上げることはせずに彼はそっと離れていった。
記憶にある蓑虫のような後ろ姿、今はなんだか切ない。
その後しばらくして母親が姿を見せた。
砂場遊びをしていた息子の手に握られている抹茶味のチョコ。

誰から貰たん?
ジュリー

と返答する会話の可笑しさは、今でも笑ってしまう。
有り得ない組み合わせが上手くはまった時、化学反応が起こりイノベーションに繋がるがそれは起きず、以降ジュリーに会えない、会わないルートで登園することになった。
父親は好意的にジュリーを捉えていたと思うが、母親からすればそうだろうと思う。
その後、河原町からジュリーは消え、何年かして天に召されたと聞いた時には、少し寂しくなった。
ちなみに、幼い私が喜ぶ姿を想像して渡してくれた抹茶味のチョコは、封は切られてはいなかったが、夏の暑さでネッチョネチョだった。もはや人に渡すような代物ではないのだが、もしかしたら本人は食べたかったのかもしれない、彼にとっての最大限のオモテナシだったのかもしれない。

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