記憶を辿る20
『 潮目が作るカオス 』
記憶を辿る19話でお届けした通り、大人の別世界を見た私だったのだが、その後も幾度となく仲間の女子中学生や、知り合った女子高生が誘ってくる高校生パーティ(昼間のディスコでヤンチャな女子高生が主催するパーティ)に顔を出してはいたが、あの時のあの味わいは皆無であった。フードなんて全く出ず、そこにいる女性達は着飾ってはいても中学生か高校生、ビールを飲んで酔っ払ったような風態になった同年代がいる世界が私には幼稚に見えた。
今では考えられないが、主催者は高校生でも知恵をつけた彼らが絞り出すのは合法的な脱法。箱を借りるのは主催者の中の兄貴とかお姉ちゃん。だから当時は酒類も堂々と出ていて、箱側も気付いていたはずだが見てみぬふり。当時、初めて飲んだお酒が高校生パーティだったとか、流れで繰り出す三条大橋の下だったという人達も多いはずだ。
こうして覚えていったパーティ文化だが、19話で書いた架空をよく使った相手がいる。同話の御三家、東山や大谷の高校生だ。
日付も場所も何もない“パー券“と汚い字で書かれた紙切れを、絡んでは売りつけることを嗜んでいた。所謂はカツアゲである。
なぜこうなったのか? 京都には幾多の高校があるが、御三家から漏れてしまった高校生達がいた。
どこの高校とはいわないが、彼らが最初“ガシ狩り“”タニ狩り“を遂行し出していた。
後に社会問題になってしまう“airmax狩り“やリーバイスの“XX狩り“と同類の思考回路が発端で、僻みと妬みが捻りを生んでいた。可愛い女子高生を横に連れて歩く彼らが気に食わなかった彼ら。彼女の前で粋がり派手に闊歩する御三家に対し、ブランド牛ではないがオスとしての強さを女性に認めて欲しいという欲求が行動を想起させていた。
特に彼女だったと言う訳ではないが、東山界隈の派手な女子中学生と仲が良かった我々は、彼らに絡む理由は皆無だった。しかしその歯止めは効かず、粋がっていることが格好良いと言う方向へのベクトルは止まない。三松映劇や八千代公園辺りを基地とする我々のテリトリーに入ってきた御三家、中でもパンツの裾の両端をパンタロン風に切って闊歩していた御三家には容赦無く“パー券“を売り続けた。
こういった無軌道な状態は危険も隣り合わせだ。
粋がった奴がいるという情報は超速で広がる年代。
ヤンキー文化の総本山的な山科地区から、偵察隊的に送られた同年代のヤンキーにボコボコにされた事があった。顔は絵に描いたように傷だらけ、半端な人間から醸し出ることはない、他を圧倒するほどのオーラを放つ背丈の低いヤンキーと、その後方を守る京都タワーほどに背が高いヤンキー。今風でいうとリベンジャーズのマイキーとドラケンのようなコンビだった。
「お前ら何々け?」と聞くが早いか、殴られるが早いか分からないほどの早さで倒れたのを憶えている。この頃のゲーセンの流行はストリートファイターという対戦型ゲームが席巻していて、見ず知らずの相手と画面越しに戦うのだが、粋がっている私は負けた腹いせで、対戦を仕掛けてきた相手にもよく絡んだ。しかし絡んだ相手が「なに?」と立ち上がると、背丈も体重も倍ほど違う戦車のような大学生に新京極でブン回され、お土産物屋さんに投げ込まれた事もあった。
何も粋がっていた事を自慢したい訳ではない。
そこに被害者が存在した限り肯定するつもりも更々ない。
ただこの年代にふさわしいとされる道、勉学に励み部活動に勤しむという道から外れてしまった私の無軌道かつ無秩序な心の状態、自分の立ち位置や居場所を探そうと必死になる行為は、負の連鎖しか生まない事を伝えたいだけだ。
それに”いま”同じような状況で踠き苦しみ悩む若者に、私の今を伝えることで彼らの”いま”から解放してあげたい気持ちもある。
このコラムを読んだTVプロデューサーやメガブランドから引き合いがあれば儲け物かもしれないが、全くもって誰得な話を書いている事、私のような人間の”いま”がある以上、辿ってきた軌跡を書かないと前に進めないから書いているということを忘れないで頂きたい。
今思えば高校に進学後、何人もの教師や大人から救いの手は差し伸べられていた。修正はいくらでも効いたはずである。しかしその手は掴まず、この空を掴むような足掻く行為は、20歳を境に至ってしまう”自死”への沼へ入り込んでいくのだが、この時期、後に私が事ある度に影響され、今も付き合いが続くキーパーソンとの出会いがあった。