記憶を辿る8
『 田の字の遊び場 』
昭和50年後半、山城を構える富小路三条界隈はドーナッツ化現象と呼ばれる空洞化が進行していた。
郊外のマンションや家がバカ売れしていた時代、街中の小学校内は、どの学年も30人に満たず、そのまま6年間を同じクラスで進級していった。そんな小規模校だったから、全校生徒で知らない先輩や後輩なんて居なかったし、兄弟のいない私にとっては、もはや家族同然だった。
いつも並びは一番前。
保険の先生が私を個別で呼び出し、”なにか悩みはない?”と聞いてくるぐらい背が低かった。今とは違い超絶ポジ男だった私は、何言うてんの?と笑いながら受け流したのを覚えている。
担任の先生にもよく怒られた。
ある放課後、学校のガラスを割ってしまった事がある。
この時の怒られ方が半端ではなく、ガムテープの柄でフルスイングバチコン行かれた挙句、消化用水をぶっかけられた。あれは流石にキツかった。20年ほど経って担任と話をした際、あの時なんであんなキツかったんですか? と聞いたら”奥さんと上手くいってへんかってん”と言われ、みんなで大笑いしたのだが、右に習えを良しとする今じゃ考えられない逸話だ。それぐらい腹の立つ子だったのだろうし、先生も人間味が全面に出ている時代だった。
遊び場も、一風変わった場所が遊び場だった。
中でも一番楽しかったのが、四条富小路にあった今はなきジュンク堂での鬼ごっこだった。5階建て本屋のエレベーターやエスカレーターをフル活用した鬼ごっこ、お客さんがいたらタッチなし。小走りで静かに牽制しながらまた逃げて、運が良ければエレベーターで他階にワープした。しかし30分もすれば店員さんも流石に気づき、ワープした先のフロアで御用となる場面も多かった。
最初は温和な感じで接していてくれた店員さんも、何度も何度も御用を食らっているうちに、最終的には鬼のような形相で追いかけてきたのを覚えている。真面目な人をキレさせたら何よりも怖いということを知った出来事である。
こんな調子の鬼ごっこだったから、色々な旅館やビルの勝手口はどの道に抜ける、億ションの隠し通路はココにあるなど熟知しているのは当たり前だった。ろっくんプラザ(京極六角)にあったダイエーでは、毎日のように試食会が行われていて「お母さんに言うとくし!」とか上手く言いながら、何度も何度も試食をねだりに日参したと記憶している。
最下位が通例の阪神が優勝した時代、大人達は乗りに乗っていた。
友人の父親なんかは強烈で、運動会の様子を自家用ヘリコプターで観覧しに来る親がいたりした。子供なりに時代の躍動感を味わっていた小学校時代の仲間は、少人数で6年間すごしたこともあり、他学区では考えられない密度の濃い付き合いで、私の人生に無くてはならない存在となって今も続いている。