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第5回 染織祭調査4 染織祭挙行における宣伝広告物調査


1.はじめに

 今回は国立国会図書館デジタルコレクション(以下デジタルコレクション)を利用した調査で新たに分かったことのうち、染織祭の観光客向け頒布物について下記表⑦を中心に掘り下げて調査を行いました。今回の調査ではその宣伝広告等についてまとめ、京都市をはじめとした関係者たちがどのように染織祭をPRし、集客をはかったのかについて探っていきます。

染織祭調査で新たに判明したこと



2.京都市と観光

 「京都市政史 上巻」によると、日本が観光に力を入れたのは、昭和5年4月に鉄道省の一外局として『国際観光局』が創設されたことがはじまりです。しかし、京都市では昭和2年7月京都駅付近に市設案内所を設置したことをはじまりに、国と同時期の昭和5年5月に全国の自治体で初の『観光課』を設置しました。”京都市が観光を市の事業として確立するに至ったのは、市の特性である五大要素によって必然的な発展の経路を辿った”と同史にも書かれているように、歴史、精神、文化、美術、天恵を観光の五大要素として掲げ、当時から京都の特性を活かした観光を推進していました。
 京都に観光客を呼び込むイベントとして、京都四大祭りと呼ばれていた染織祭が紹介されていました。


3.京都市による染織祭の宣伝広告物等

 デジタルコレクションなどを用いて染織祭の宣伝広告について調査を行い、確認ができたものについて、下記に表を作成しました。

昭和6年~13年、昭和16年に京都市より発行された染織祭の宣伝広告物

 京都市観光課による観光宣伝の方法は、ポスターやパンフレット、地図などの配布を行う「直接宣伝」と商工課の展覧会出展の宣伝を行う等といった「間接宣伝」の2通りの方法を用いていました。今回は「直接宣伝」における染織祭の宣伝広告について紹介します。

・京都名勝
 
「京都名勝」は、京都市産業部観光課が発行していた京都の名所を紹介する小冊子です。観光・鑑賞するうえで価値のある庭園や山等の景勝地を主に紹介しながら、四大祭りも取り上げ、その1つとして染織祭についても紹介しています。
・花電車の運行
 
花電車の運行は当時、染織祭の前日から開催日の間、京都市電に装飾を施した花電車が運行されており、「京都市例規類集第9-16類」によると、“日給者ニシテ年末年始、節分、染織祭、祇園會ノ当日勤務シタルトキハ日給額以内ニ於テ割増金ヲ支給ス(京都市運輸現業員給料支給規程10条)”とあり、染織祭当日の花電車の運行に携わった作業員に対しては割増賃金が出ていたという記録があります。
・フィルム映像
 
フィルム映像「京の四季」は、昭和9年に第一映画撮影所に京都市が3000円の補助金を出して制作を依頼し、観光客を誘致する目的で制作されました。「春の京都2巻」には京都の桜の名所などと共に染織祭や葵祭が紹介されています。全国主要常設映画館で「京の四季」を上映する映画会社に対して補助金を出すなど宣伝強化をはかったり、上映経過後に鉄道局に複製したフィルムを寄贈し、映写してもらうよう委嘱するなど、京都市は当時観光事業に力をいれていました。

・染織祭案内

京都市観光課「染織祭案内(昭和11年)」
京都染織文化協会 所蔵

 上記は京都市観光課が発行した、昭和11年第6回染織祭の2日目の女性時代風俗行列(以下、風俗行列)の案内です。各時代の衣装の解説と、行列がどこを歩くのかを記した京都市内の地図が載っており、市役所や平安神宮祭場などでは、奈良朝時代、平安朝時代、江戸時代初期の舞踊が披露されていました。
 また、行列の衣装解説についてはどのような衣装なのかに加え、役ごとの詳しい記載がされており、江戸時代末期「京女の晴着姿」では、”京都に住む公家、武家、町家等の婦女の晴着姿を模したものであるが、その時期は同一ではない。 (中略) 姫君は十七、八才の姿、振袖の被衣姿であって頭髪はつぶ髷である。…”というように、装いだけでなく設定年齢や髪型についても触れています。当時、見物に訪れた人々は実際の行列と見比べながら染織祭を楽しんでいたのでしょうか。

・ポスター

京都市観光課「第4回染織祭ポスター」(当協会HPより引用)

 上記は昭和9年に京都市観光課が制作したポスターで、近畿地方各所に配布されました。ポスターは昭和9年以外にも昭和12年と昭和13年にも制作されていたことが記録に残っています。また、染織祭のポスターが戦前、日本で一度だけ行われた平和博覧会であった昭和13年の“名古屋汎太平洋平和博覧会”にて、施設内の観光街外廊に春の京都をPRするポスターと共に掲示されていたことが『名古屋汎太平洋平和博覧会会誌』中巻』に記録されており、平和博覧会に訪れた人に観光客誘致の一環として染織祭をアピールしていました。



4.染織講社による染織祭宣伝広告等

染織講社が発行の宣伝・配布広告

  染織講社は染織祭を主宰していた京都の染織業者を中心に組織された団体です。昭和8年から昭和12年まで毎年行われていた風俗行列に次の冊子を配布しています。

・染織祭時代時代行列の解説


染織講社「染織祭時代行列の解説」(昭和8年)
京都染織文化協会 所蔵

 上記は昭和8年染織祭時代行列の解説です。風俗行列の各時代のモチーフとなった行事、衣装や髪型などの解説です。各時代の背景に用いた装飾技法についても記載されています。

・染織祭時代行列所役

染織講社「染織祭時代行列所役(昭和11年)」
京都染織文化協会 所蔵

 上記は昭和11年に配布された「染織祭時代行列所役」です。これには、衣装を着用した京都の八花街である島原、上七軒、先斗町、宮川町、北新地、祇園甲部、祇園乙部、中書島の芸舞妓の芸名が記載されています。奈良朝時代「歌垣」、平安朝時代「やすらい花」、江戸時代初期「小町踊」のそれぞれの歌詞も記載されています。



5.大蔵省専売局による染織祭記念煙草「光」の販売

 

染織祭記念煙草「光」パッケージ 昭和12年4月10日発売
京都染織文化協会 所蔵

 上記は、昭和12年4月10日に大蔵省専売局によって販売された染織祭記念煙草「光」のパッケージです。約20万個販売されたと記録されています。記念煙草は、当時煙草の販売を担っていた大蔵省が、煙草の販売促進のために国の慶祝事をはじめとする様々な博覧会や展覧会、お祝い事などの記念として、特別なパッケージを制作し売り出していたもので、大正4年11月に発売された大正御大礼記念「八千代」をはじまりに様々な記念煙草が発売されました。そして染織祭記念煙草の販売は、染織祭を宣伝することにもつながりました。また、「書物展望 第9巻第7号」によれば、こういった記念煙草の蒐集を趣味にする方もいた他、土産物としても好評であったようです。



6.まとめ

 当時、京都市はさまざまな広告を打ち出し、どの自治体よりもいち早く観光誘致を行い観光事業に乗り出した都市でしたが、染織祭も当時の観光の推進に寄与していたことが伺えました。しかし、第二次世界大戦のはじまりから風俗行列が中止となり、昭和26年には染織講社が解散し、染織祭も終わりをむかえました。いま現在、染織祭当時の様子を知るための調査を行っていますが、時間が経つにつれ染織祭の資料はなかなかみつかりにくくなっているのが現状です。
 更なる調査のために染織祭についての資料や写真といった手がかり、当時頒布されていた広告物などをご存じ・お持ちの方がいらっしゃいましたら下記ホームページのお問い合わせフォームよりご連絡をいただけましたら幸いです。



6.参考・引用文献



今回調査に使用したサービス
 ・国立国会図書館デジタルコレクション

お問い合わせについて
 公益社団法人京都染織文化協会