ノーマスク学校生活宣言をしようと決意した理由について
2年前、医師会はまともだった
新型コロナが流行りだして、はや2年たった。
流行っているというより、から騒いでいるといった感じだけど。
幽霊の正体見たり枯れ尾花。
もうオミクロンは完全に弱毒化し、諸外国は次のステップに向けて早速舵を切り始めている。
英国、デンマーク、アイルランド。規制を続々撤廃。
アメリカも州によってはコロナを忘れだしている。
日本は何やってるのか。
せっかく交差免疫というファクターXのおかげで被害が極端に少なかったというのに。
今回のコロナ騒動で医師会の権威は地に落ちた。
ついでに経済も地に落ちかけ。
でも2年前は医師会もまともなこと言ってたのにね。
マスクは風邪症状のない人がつけてもたいして意味がない。
東京都医師会が言っていたこれも、その一つ。
ちなみに厚労省ではこの見解をまだ捨ててない。こんなリーフレットがちゃんと残っているからね。
念のため厚労省に電話して確認してある。
まだこの見解を保持しているそうですよ。
実際、第1波から第6波まで、日本ではきれいな曲線を描いて波ができている。
99パーセントの人が街中でマスクをしているのに、それとは全く関係なく上がって下がっている。
これだけの国民がマスクをしていて、本当にマスクに感染予防効果があるならどうして第6波はこんなに急な曲線を描くのか?
忖度が大好きな日本
結局マスクをしていてもしていなくても、感染するときはする。
飛沫を飛ばさないように咳エチケットは大事だけど、症状のない人がマスクをしていても意味はないのだ。
そして日本ではマスクに着用義務はない。そんな法律はない。
科学的根拠がない以上、法律にできない。
ところが学校ではマスクをしろと言われる。
「学校ではマスクを着けてください」
「マスクの着用が必要です」
この言い方で、だれがマスク着用は任意だと思うだろうか?
しかも、していないと注意をうけ、持ってくるように言われる。
完全に「指示」である。
しかし、本当は任意なのである。
文科省も、教育委員会もマスク着用の可否の決定権は保護者にあることを認めている。
今回のコロナ騒動すべてにわたって言えることだが、法律で強制されていないものが、あたかも強制であるかのように行われている。
自粛要請や濃厚接触者の自宅待機要請なんてのもその一つ。
感染が確認されてもない人を拘束することはだれにもできない。
でも、みんなやらないといけないんだと思っている。
もしくは、やらないと非難を受けるからやっとこうと。
これが日本人のスタンスかな。
だれかから非難を受けたくない。
悪者と思われたくないし、自分も思いたくない。
だからおかしいなと思っても、考えないようにする。
文句を言われにくい方を選択する。
しかしその態度が実はコロナ騒動を助長している最大の要因なのだ。
情報を集めて初めて自分で判断できる
先日子供のクラスが学級閉鎖になった。
当然のごとく、学校からはPCR検査をお願いしますと言われたのだが、風邪症状がないので丁重にお断りした。
理由を聞かれたので、
「PCR検査は感染性の証明にならないことがわかっているので、やっても意味がないからです」
とそのままお伝えした。
学校からは「そうですか」といわれ、数時間後にもう一度別の先生から確認のお電話が来たが、
「PCR検査を受けないというのは本当ですか?」
「はい、そうです」
で終わった。
罰則も、なにもない。
本来検査を受けるか受けないかは自由だ。
しかもこの検査を受けて陽性になったとしても、感染してるかはわからない。
感染を診断できるのは、医師法で医師だけだと決まっている。
昨今行われている「みなし陽性」もわざわざ「みなし」とつける意味が分からない。
もともと医師による診断がない検査であれば、すべて単なる「陽性者」であり、「感染者」ではない。
しかし新しい語句をいろいろ創造するなあ。
「濃厚接触者」「自粛要請」「みなし陽性」。
「自粛要請」なんかは日本語として完全に矛盾を感じるけど。
こういったことは、情報を得て初めて分かることが多いが、TVや大手メディア、新聞ではいまだに陽性者数を感染者数として誤報を続けている。
ここまでメディアがあてにならない時代がくるとは、正直思ってもみなかった。
しかもちょこちょこ詐欺的な言い回しでひっかけてくるから厄介だ。
今回のような濃厚接触者になって検査をと言われた場合、いろんな事情から受けたくない人もいると思う。
「受けるか受けないかは任意です」なんて親切なことは言ってもらえないので、しっかり自分で情報を得ておくことが大事だ。
自分で判断をするということの意味
情報を得て、どちらを判断するかはその人の自由だと思う。
ただ、しっかり調べて確信を得て、自分で判断を下すというのがとてつもなく大事なのだ。
自分で判断し、行動するというのは、すなわち生きているということ。
生きているという実感は、それなしでは得られないと思う。
こどもたちは「いい子」になるために生まれてきたわけではない。
私たちも「いい人」になるために生まれてきたわけではない。
自らの生を存分に生きるために生まれてきたのだ。
人は過剰に他人や環境に適応しようとすると、自らを殺してしまう。
私自身も、若いときはどちらかというとその傾向があった。
優等生やいい子であるほど、他人に忖度してしまう。
そしてここ20年くらいだろうか、日本において子供にそれを求める傾向が強くなったように感じる。
若年者の自殺が増えたり、子供の不登校が増えているのも関係がないと思えない。
学校や、まわりの大人が子供が子供らしく、「そんなのいやだよ!」と言わせないようにしている。
「マスクなんかいやだよ!」
「みんなしてるんだから、あなたもがまんして」
というふうに。
人生はすべて実験だ
客観的に見て正しいかどうかは、時が経ってみないとわからないことも多いだろう。
今回のコロナ騒動も、真実がわかるのは一体何十年あとになるのか。
しかし子供はその時その時に成長している。
待ってくれない。
コロナ禍が終わってから成長するわけではないのだ。
子供の気持ちや考えを置いといて、コロナ禍がおわるまで待ってねとはもう言えない段階だと思った。
子どもたちは十分に我慢し、大人の理不尽に耐えたと思う。
大人がきちんと理不尽に対して、はっきり「ノー」と言わねばならないのだ。
そのために1年間マスクに関する情報をあつめ、文科省のガイドラインを熟読し、厚労省や文科省に電話もした。
その間、一度学校にも話に行き、鼻だしマスクだけはOKをもらったが、根本的な解決にはまったく至らなかったと思う。
これ以上なんともできないのかと思っているときに、呉市議会議員の谷本誠一氏が推進している「ノーマスク学校生活宣言」を知った。
つまるところ、マスクに関して学校には「お願い」しても無駄である。学校は文科省の「ガイドライン」に添って指導するしかないから。
ただ、こちらが一方的に「宣言」し、保護者裁量であることをしっかり伝えることでノーマスクは実現できるということだった。
目からうろこである。
ただ、それでも逡巡はあった。
宣言することで、子供がいじめられるかもしれない、学校から目をつけられるかもしれない、ほかの保護者からも非難されるかもなどなど・・・。
子どもにもリスクを説明し、もちろんそうなったら全力でお父さんとお母さんが守るということも伝えた。
子どもはやはりマスクをはずしたいらしく、「やる」と答えたのだ。
ならばやろう。
そう決意した。
これを実行することによって、子供が傷つくこともあるかもしれない。
しかし、それでもきっとやらないよりやったほうがいいのだ。
自分で自分の人生を選んで生きるということを実感できるのだから。