奮務記

人によって仕事の得手不得手というものは当然あるもので、ひとつの職場の中でも、どの作業が得意か不得意かも各人千差万別だ。

ただ大事なことは、長所を生かしつつ苦手分野も少しずつ改善に取り組んでいくことである。

それで、いつまで経っても段取りが悪い人というのは、自分の長所・短所をそもそも把握できていないとか、特に短所において自覚はあっても認めたくないとかいった事情があるように思える。


私が勤めている職場にもそのような人がいて、こちらの辛抱が試されることもしばしばである。

何しろその人は私よりも1年早く今の会社に入ったのだ。
訳も分からず目先の仕事を雑に片付けるだけ、というやり方はいい加減に改善してほしいものだが、こういう人ほど何をどのようにすべきかを具体的に教えなければならないため、問題の解決は一朝一夕ではない。


この人の場合、特に顕著なことがあった。
「大抵の物事には、そうなるだけの意味・目的・理由がある」という当たり前の事実に対する認識がまったく不足しているのだ。

例えば、あるステッカーを商品パッケージのこの位置に貼ってください、と指示したときに、「その位置」に貼る然るべき理由があってそのように伝えているのに、それが分からない。推察することもできない。
結果として勝手に自己判断して勝手な位置に貼ってしまう、といったことである。


デザインにしろ機能設計にしろ、「それがそうなっていること」は明確な意思とアイデアの所産である。
中には偶然性を利用した産物もあるが、「偶然性を利用するということを選んで決める」のは紛れもなく人の意図だ。

どのようにそうなっているのかを詳細に知ることは必ずしも必要ではないが、設計されたものには、それを設計した者の目的や意図が関係している。そうなるだけの理由がある。
この事実をともかく弁えることが肝腎なのだ。


ではこうした認識や思考がどこで培われるのかといえば、学校で行う義務的な勉学である。

それを情緒や思索の世界で行うのが国語の勉強であり、連綿と続く人の営みの視点で捉えるのが歴史や政経の勉強であり、一つの事象と捉えて筋道を明らかにしようとするのが数学の勉強である。

つまり勉学というのは分野にかかわらず「なぜ(意味・目的・理由)」を突き詰めようとする活動であり、社会でそれを実践的に行えるようになるためのチュートリアルなのである。


少なくとも私の若いころ、学校で学ぶことは社会で役に立たない、などという的外れな意見を言う者もあった。

いやいや、使ってもいないうちからなぜ役に立たないと分かるのかという話だ。

確かに、そこで習う個々の知識のすべてが普段の生活の役に立つわけではないのだが、見るべきところはそこではない。

世の中の物事が原因と結果を組み合わせた「仕組み」でできているという認識、物事は何であれ独立的に存在しているのではないという理解。
これを思考のプラットフォームとして身に着けることにひとつの意味がある。


もっとも、まだ考え方においても順応性のある若者ならともかく、年齢を重ねて自分が常識だと思い込んでいるものがプライドと共に確立されてしまった人に、新たにこうした思考の型を自力で体得してくださいというのはなかなかの無理難題である。

個人だけの問題ならば放っておいても良いのだが、その結果が仕事の成果や周囲の人の士気に関わるとなれば、マネジメントできる人が目を配り気を配っていく必要がある。


私は、人を見ることというのは基本的に「希望すること」だと思っている。

きわめて優秀な人が一握りであるように、まったく度しがたい無能な人というのもまたごくごく少数であると考える。
言い換えると、大抵の人は良くなる可能性を持っている、あるいは少なくとも秘めているということである。

個々の人の持つ可能性に希望を抱くなら、その人の仕事ぶりが今は効果的とは言いがたく何らかの率直なアドバイスを与えなくてはならないものだったとしても、感情的になってしまうことを避けられる。


学びは一生、という趣旨の言葉を耳にすることがあるが、それは多くの場合教えたり教えられたりという営みによってもたらされるものだ。

先に取り上げた「仕組み」の思考、物事の意味・目的・理由を意識することについても、折に触れて教えたり教えられたりということがこれからも続いていくのだろうな、と思う今日この頃である。

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