海外生活で本当の自分に気づかされています。
日本で生活していたとき、私がいかに、相手の気持ちを察しようとしながら生きていたんだなということを、ここドイツの地で気づかされました。
たとえ、それを自覚できたとしても、無意識的に染みついた思考と行動の習慣は、中々、簡単には変えることができません。
人生40年、ずっとそれでやってきたのですから。
これまでの、日本での私は、特に相手の気持ちを探ろうとか、察しようとして生きてきた気がしています。察することが得意とすら思っていたかもしれません。
おそらく、仕事で関わってきた学生にも(教員時代)、選手にも(コーチとして)、もしかしたら自分の家族にも(親として夫として)。
おっと、こうやって書いていますが、相手の気持ちを察したりすることは、すべてが悪いことではありませんからね。
むしろ、ときと場合によっては私たち日本人の優れた能力の一つであると感じています。
しかしながら、私個人として、ちょっと厄介であったのは、「自分の本当の気持ち、本音はなるべく相手に伝えずに」相手の気持ちを察しようとしていたという部分なんです。
ドイツへコーチ留学へ来て、7ヶ月。
日々、様々な国の方々と接し、彼らとのコミュニケーションに悩む中で、自分自身の内面的な部分に、はっとさせられる機会が増えていったのです。
「今までの私は、目の前の相手に対して、どんだけ適当に接してきたんだろう?」
いや、本当に適当だったんだと思います。
・相手の話をうんうんと聞いて理解したふりだけする。
・あいそう笑いで話をごまかし終わらせる。
・自分の本音は隠し、一般論で切り抜ける。
・基本的に議論はしたくない。
などなど。
異国の地で、このような情けない自分に気づいていったのです。
お前、よくそれで教員や、コーチをやってきたなというのが皆さんの客観的な感想だと思います。
私は、過去と今現在の、自分自身の姿勢を振り返って、猛省しています。
本当の自分に気づけたことが嬉しいことです。
最近、私がぼやっとまだまだ抽象的に考えている、異質な他者との相互理解に必要なことです。
・お互いが大切にしていること、モノゴトの価値観や、個人や全体の世界観をお互いに深い意味合いまで知り合うこと。
・その知り合う過程において自分自身の考えや立場をはっきりと丁寧に相手に伝えること。
・そして、お互いの違いを認め合い尊重すること。
同質性の高い集団や相手に対しては、あえて自分の本音を隠した方が上手くいきやすいのかもしれません。
ですが、異質性の高い環境や集団では、自分の考えを真摯に誠意を持って伝えなければそもそものコミュニケーション自体が成立しえないということをここで経験しています。
まとまりはないのですが、今日はここまでにします。
とりとめの無いメモ日記みたいなものなので。
最後に
4年ほど前、大学教員をしていたころに、人間関係の悩みから、自分の進む道を見失っていた頃がありました。
大好きなハンドボールの現場にも距離をおいていたんです。
そのときは、暇があれば(部活顧問も放棄していたので、夕方から暇しかなかった...)大学の図書館に行き、片っ端から本を借りて読むことと、誰にもチーム打ち明けることができない、もやもやした自分の気持ちを日記の様にノートに書き留めるということをしていました。
その内容は絶対に公開なんてできない荒みきった地獄の様な日記です。
でも、あるとき、同じように日課の地獄日記にペンを走らせていると、「プロのコーチになる」「ヨーロッパに行ってハンドボールを学ぶ」という一文を、自分の手が勝手に書いていて、そのときにようやく自分の本当のやりたい事、進みたい道に気づくことができたのです。
自分の研究室にいるときでしたが、涙が勝手に溢れてきて、自分自身の覚悟が決まった瞬間でもありました。
自分の思いを吐き出す地獄日記は悪いことばかりではなかったのです。
そして、その4年後の今、私はドイツにいて、ハンドボールの指導理論や実践方法について学んでいます。
また、こうしてnoteを使って文章を書きだしているということは、いまここで、今度はとても良い意味で、自分の内面の深い部分に向き合えているということなんだと思います。
2024.5.17 ライプティヒ中央駅のホームにて