普通の日記
久しくまとまった文章を書いていない。
日常は忙しすぎるのがいけない。まともに自分自身と向き合う時間なんて取れないぜ。と言いたいところだけど、普通に1、2時間YouTubeを見てたりするので、単に書く気がないんだと思う。
これでは日常で書くまとまった文章が仕事の文章になってしまう。よくない。とりあえず普通の日記から書き始めようと思う。
今日は仕事で会議があった。「会議は踊るされど進まず」という言葉があるが、全然そんなことはなかった。ザクザク進んだ。「会議は踊って進まんこともある。」くらいに変えといてほしい。踊る気満々でダンスシューズ履いていくとこだった。
今の仕事について5ヶ月くらいが経つ。気質として努力や日常を積み重ねていくというの苦手なので、こういう強制的な“積み重ね経験”をすると、積み重ねの大切さがわかる。
日々の進捗を感じることは全然ないけど(そこまでまだ俯瞰できる余裕はない)いつの間にか色んなことがわかるようになってる。なんかあれ、いつのまにか髪伸びてた時の感覚にちかい。
まったく関係ないけど、とある出来事をきっかけに「本を読まなければならないのでは?」という強迫観念に駆られている。
読書、趣味にしては高尚すぎるっていうか、資格くらいすごいように感じる。今まで出会ってきて「面白いな」「もっと話したいな」と思える人がすべからく本を読みがちだったからかな。身近な存在というよりは、憧れの対象に近い。
そういえば、ダヴィンチ恐山さんがオーディブル勧めてたな。有名な作品を朗読してくれるようで、少し気になってる。
ただ、オーディブルで読んだってギリ読書したっていっていいのかな?本読む人ってこだわり強い人多そうだから、ふいに
「本読んでるんですよね〜」
「え!ほんとですか!何読んでるんですか〜!」
「海辺のカフカとかですかね〜、オーディブルで流し聞きですけど笑」
「は?オーディブルは読書じゃないが?本は“読む”という行為を通じて能動的に作者や作者がもたらす感性と交わることであって、朗読するものをただ垂れ流すなんていう受動的な態度は読書とは呼べないが?謝れ、謝れ、ジュンク堂まで行って謝れ、三省堂まで行って謝れ、謝罪しろ謝罪しろ、今までオーディブルで聞いてきた作品を本屋の前で泣きながら朗読し続けて贖罪をしろ。
とか言われてもおかしくないよな〜。めっちゃこえ〜。でもなんかそう。文化としての敷居これくらいに感じちゃう。音楽より厳しいものがある。
こういう偏見がねあるのはきっと本読んでないからだね。ごめんね、ごめんね、ジュンク堂までいって定礎に土下座してきます。