スイミングスクールを見ました。

こんばんは、お久しぶりです。黒さわです。
久しく九月のコント感想noteを書いていなかったのですが、久しぶりに。

九月のコントを見始めてから約一年くらいが経ち、半年を過ぎたあたりから、構成や構造、ある一定の正しい見方みたいなもので見なきゃなぁと思っていたのですが、ここに来て急に自分に引きつけて見る時期みたいなのに入ったので、noteに感想を書きたいと思います。

九月のYouTubeで、ちゃんとした見方をしている(であろう)方々のコメントなり何なりがあるので、見方ガイドとしてはそちらを参考にされると良いと思います。

今回取り上げるコントは、スイミングスクールです。
動画で上がっているのは、まっさらな家テイク(上)と軟禁テイクだと思います。もしかしたら、BASEテイクも上がっているかも。各自好きなものを見てください。


リードの通り、肥大しすぎた自尊心をプールに溺れて縮めたい人の話です。

一見、マジで意味わかんないなと思うのですが、結構これ人間あるあるなんじゃないかなぁと思います。

自分の話になるのですが、私はすごい人工的なところがあって、というのも、人からの視線とか、人に何を求められてるかみたいなものばかりを気にして生きていて、
自分のコアみたいなものが、自分と離れたところにあるような感覚に陥ることがあります。

人と話す時とか関わる時にもなんか、膨れ上がってしまった自分みたいなものから抜け出せなくて、受け入れられれば受け入れられるほど、歪んだ喜びと現実への諦観でどんどん後に引けなくなっていく感覚があって。

時々、自分はそういう人間じゃないっていうか、自分の情けなさみたいなものをぶちまけたくなる時があります。

このコントを改めて見た時に、なんかすごい分かるなぁと思ったんですよね。

なまじ、自分の自意識が肥大化していることに気付いていて、ある程度上手く世渡りできてるからこそ、自意識を縮める行為(情けなさを晒す行為)が、恥ずべきもの(対価を払って行われるものだ)という感覚が、おじさんにはあるのかなぁと感じます。

中盤〜終盤にかけての、インストラクターさんに笑って欲しいとか、それを見て団欒して欲しいとかもすごいエゴイスティックだなと思います。情けなさを笑って許して欲しい、みたいな欲求、本当にある。その団欒に自分のエゴボールも参加していたら、というのも結構切実だなと感じます。自分の情けなさ、自分でも受け入れられたら確かにそれは幸せなのかもしれない。

ただ、悲しいのは、やっぱり側から見るとこの行為はキモすぎるところですよね。自分の恥部を晒すのはどうしてもキモい感じが出てしまう。多分、この情けなさを晒す行為に恥とか後ろめたさを感じてるからこそ、こんなにキモい仕上がりになっちゃうんだろうな。切ないですね。

あと、なんか間違った見方ついでに言うと、私はこのおじさんが九月にもみえるんですよね。何事もそつなくこなして来て、色んなものが膨れ上がって、それを縮めるために、自分の情けなさを晒す。笑ってもらえるように工夫をする。それで笑ってくれたら良いって、九月がやってるコントそのものに思えて仕方がないんだよなぁ。

私はこのコントを見てまだ笑えない時もあるけれど、いつか笑える時が来たら、おじさんの(または九月の)ごめんなさいを笑ってあげたいです。

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