育てつ育てられつ
子どもが産まれてなんだかんだで1年以上になるので、ちょっと最近思うことを書き連ねてみたい。
内田樹さんが、むかーしブログに書いていることで印象に残っている記事で、「生きること=営みを続けることは、カオス(混沌)の状態をコスモス(調和)に近づけ続けることである」といった趣旨のはなしをされたことがあった。
仕事も同じで、「仕事に終わりはない」理由は、そもそもゴチャゴチャしている世の中で、誰かの役に立つ価値=整理され、不要なものが削ぎ落とされたものを作り続けることに終わりがないから、と言い換えても良いのではないかと思う。もちろん、これは情報が価値、という現代により顕著になっており、昔は仕事に終わりがないなんて特殊なことだったと思う(これはまたいつか書こう)。
同じように、子どもを育てていると日々はカオスでしかない。基本的にアンコントラーブルな「他人」でかつさらにロジックも通用しない「前近代」である「子ども」と対峙することが求められるわけだが、そこにあるべき姿の「人間」を当てはめようとする営みが教育なのである(少なくともいままでは)。
ただ、それをやっていて思うのは、果たしてこの「人間」が、正しいものなのかが実はよくわからないというところから多くの親の悩みが始まるのではないか。
なので、自分で思っている子育てとは、そのあるべき「人間」をできるだけ自分では決めず、子どもの本来持つ性と、世の中(社会)が求める最低の共生条件をすり合わせる手伝いくらいならできるだろうというところである。
翻って会社のマネジメントも、結局は自分がマネージするチームが市場とずれないよう、手伝うところが大きいのではないかという気がする。
そうした際に、自分では常に世の中を見ておかないと(すりあわせがミッションなら)、自分のロールが果たせない。
そのため、マネージャーも親も、常に学び、成長しないといけないのだろう。
また、逆に子どもの性を見るためには、自分を見つめ直すことが(相手との違いを理解し、認める作業がスタートなら)必要となる。
こんなことから、まあ、育てるとは言いつつも、意外と子どもに育ててもらってるのでないかと感じる日々である。
娘が大きくなったら、「知らんがな」と一蹴されると思うけど。
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