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やっぱり和歌山市街は巨大過ぎる

こんばんナマステ💙Kyoskéこと暑寒煮切(あっさむにるぎり)だよっ⭐️

和歌山市に行ったのは、学生時代に観光で1回、2014年に出張があって、今回の出張が3度目だと記憶している。

毎回思うのが、兎に角街がデカ過ぎるということ。

都市の規模に対して、というところかな。

だから高層ビルがほとんどなく、住みやすい街なのだろうと思う。

道も平坦で、広いしさ。

ただ、どこからどこへ行くのにも歩いたら30分かかるような都市構造はいびつ。

何故こーなってしまったのだろう。

答えはぶらくり丁に代表される本来の城下町と、JR・南海それぞれのターミナルが離れすぎているから。

それによって明確な中心核がよくわからない、薄く広い都市になってしまったということ。

それらを路面電車が有機的に結んでいた時代はぶらくり丁にも活気があったけれど、廃止されて以降ぶらくり丁の衰退は止まらなくなっていった。

また、南海電車の和歌山市駅周辺も淋しい。

阪和間の輸送では南海電車が必ずしも負けてるとはいえないにしても、JR和歌山駅は県の南部からも、内陸からも人が集まるんだから仕方がない。

地元民は和歌山市駅を市駅、和歌山駅を和駅と呼ぶけれど、和駅の駅ビルは観光客向けの施設や、若い女の子向けのアパレルなどが集まるけれど、市駅はドラッグストア、スポーツジム、図書館など生活に密着したものが入居している。

結局、街の中心は和駅に移り、それに伴い歓楽街としてアロチ(新内)が盛り上がっていくけれど、

和駅周辺には市役所などの行政施設がなかったり、市政自体が未だに中心市街地は城下町エリアであると考えてる節があって和駅周辺も決して盛り上がってるとまではいえない。

ではどーしてこーなってしまったのか。

和歌山に最初に乗り入れた鉄道は紀ノ川沿いを走る紀和鉄道で、今のJR和歌山線だった。

紀和鉄道はターミナルを城下町の北の端に置き、最初はここを和歌山駅と呼んだ。いまの紀和駅。1898年のことなのでかなり早い。

その後、1903年に大阪と和歌山を結ぶ南海電車がその西側に乗り入れてくると、もう少し西側に市駅を置き、紀和鉄道も乗り入れてきた。

初代和歌山駅も和歌山市駅も城下町の端だけど、今の和駅よりはマシな立地ではある。

紀和鉄道は1907年に国有化されて和歌山線になり、1924年に国鉄は紀伊半島を一周する紀勢線を敷設して初代和歌山駅に繋げて市駅まで乗り入れた。また、この時紀勢線で城下町の東の外れに東和歌山駅ができ、これが現在の和駅になる。

阪和間を独占していた南海電車へのチャレンジャーとして1930年に阪和鉄道(現在のJR阪和線)が開通すると、東和歌山に乗り入れた。

阪和鉄道は京阪系だったけれど、南海電車の国有化に失敗した国鉄は阪和鉄道を将来国有化することを目論んで敷設を許可した。

1942年に阪和鉄道はライバルの南海鉄道に吸収されるものの、1944年に旧阪和鉄道区間が国有化されて阪和線になった。

国鉄は阪和線と紀勢線の間を直通する列車を多数走らせたこともあって東和歌山駅が和歌山のメインターミナルへとシフトしていった。そこで1968年に和歌山駅を紀和駅、東和歌山駅を和歌山駅に改称、和駅が誕生した。

そして1972年には和歌山線を市駅ではなく和駅に乗り入れさせるようになり、前年に市駅を起点に伸びていた南海の路面電車も廃止されたことも重なった和駅のプレゼンスはますます大きくなった。

そしてそれはぶらくり丁と市駅がどんどん寂れていく始まりだった。

「都市は西に動く」というけれど、和歌山は東に動いた。

だから思いきって、和駅への選択と集中を進めればいいと思うんだけどね。役所なども和駅近くに移せばいい。

市駅の周りも泉北工業地帯など南海沿線へ通勤する人達向けのベッドタウンとしてのポテンシャルはある。本来ならタワマンが建ち並んでいてもおかしくない。

ぶらくり丁を中心としたかつてのダウンタウンの本質的な再生は難しい。

むしろかつての城下町の街並みを復元するなど観光地区としての再生に舵を切ってはどうか。

和駅を都心、市駅を居住地域、城下町を観光地域、それに和歌山マリーナシティをカジノこそ頓挫したけれどIR的な新都心と定義して、

LRTやBRTなどの都市交通でそれらを有機的に結ぶことが必要。

そのあたりの話は明日また書いていこうと思う。

それじゃあバイバイナマステ💙暑寒煮切でしたっ✨


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