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東中野生駒軒のつけ麺を偲ぶ

こんばんなまらステ❤️Kyoskéこと厚沢部煮切(あっさぶにるぎり)だべさっ✨

昨日、東中野と中野坂上の間にあった町中華「生駒軒」が閉店。

一昨々日食べ納めに行って、普通のラーメンを食べようと思ってたらさ、ご縁があって参加させていただいているつけ麺のグループで、ここのつけ麺が話題になっていて、これは食べておかなきゃなと思い急遽浮気した。

というのは「生駒軒」は主に東京東部に残っており、仮にそれで東中野の味をもう食べることはできなくても、共通のフォーマット自体は今後もしばらくは追憶できる。あくまで「しばらくは」ね。

結果的に一昨日も時間を見つけて、ラーメンの方にもありつくことができたからよかったけれども。

「生駒軒」は元々台東区松が谷にあった「児玉製麺所」を軸にしたのれん分けチェーンだけど、2018年に児玉製麺所が廃業して「生駒軒」だけが残っている状況。

最盛期は120店とも150店ともいわれる「生駒軒」はもうほとんど残っていないし、今後増えることもほぼない。

食べログベースで残っているのは以下の店。ホントにやっているのかは知らないし、これから実際に巡ろうと思っているのでto do リストを兼ねて。(浅草、梶原はGoogleで臨時休業になってるし💦)

都心エリア

※唯一のとんかつ業態

城東エリア

※生駒相互親睦会非加盟❓どちらかというとカレー界隈で話題になる店

城北エリア

城南エリア

※この店は「児玉製麺所」に連なる店ではないかもしれない

城西エリアは東中野が最後だったということになる。

で、これもこれから回るときに確認してくる所存だけど、「生駒軒」ってつけ麺出してるイメージないんだよね。

東中野でも、グランドメニューにはつけ麺が書いてなくて、別で壁に貼ってある。でかでかと貼ってあって絶対に目に入るため相当売り出したかったメニューらしい。

この店に後付けでつけ麺が生まれた理由は、つけ麺発祥の地中野だから、以外の理由は考えられない。

中野がつけ麺発祥の地とされているのは、「中野大勝軒」で当時店長していた山岸一雄氏が、まかないから考案したもりそばを1955年に提供し始めたからとされる。

山岸氏が1961年に独立開業した「東池袋大勝軒」がもりそば(つけ麺)の総本山として世に多大な影響を残したことは誰もが知るところだろう。

それはそうと中野周辺は町中華や古いラーメン店でもつけ麺を提供しているところが多く、東中野「生駒軒」もその流れに乗ったということだろう。

味噌味なんだけど、甘酸っぱいテイストで割りスープまでしっかり出してくるは「大勝軒」をはじめとしたオールドスクールのつけ麺をかなり研究していると思うし、「生駒軒」のDNAとうまく合一させようとする意志を感じ取れた。

ただ、つけ麺って腹いっぱい食べられるという裏テーマがあるけれど、これについてはまったく理解しておらず、恐らくはラーメンのひと玉で提供されてきたのはちょっと残念だった。

おばあちゃんが作ってたけど、衛生管理責任者のところは明らかに貼り直しており、元は旦那さんの店で先に亡くなられたんだと思う。

このつけ麺は旦那さんの遺作なのか、奥さんの創作なのか。

そしてこの話はバックボーンを知るとものすごく感慨深い。

「生駒軒」「児玉製麺所」の創始者である児玉彦治氏は信州の志賀高原、湯田中温泉、渋温泉(猿のいる温泉)のある山ノ内町出身なんだけど、実は「東池袋大勝軒」の山岸一雄氏も山ノ内町出身。

というより「東池袋大勝軒」のルーツである荻窪「丸長」の青木勝治氏が山ノ内町の人で、親族を引き連れて「丸長」をはじめ、そして親族が次々と独立していった。

そのひとりが「中野大勝軒」を立ち上げた坂口正安氏で、坂口氏が親族の山岸氏を誘った経緯がある。

児玉氏が東京に出てきたのは戦前、青木氏がきたのは戦後だけども、青木氏は児玉氏の背中を見て出てきた可能性もある。

山ノ内という小さな町から出てきた2つの流れが合一してできたのが東中野「生駒軒」のつけ麺ということになるわけだから。

ちなみに東中野「生駒軒」の衛生管理責任者の姓も信州に多いものではあるけど、どちらかというと南信に多い姓なので山ノ内町の人ではないか。信州繋がりで「生駒軒」を始めるに至った可能性はあるけども。

ものすごく歴史的に深いものを見ることができてよかったけど、惜しいものを無くしてしまったなと。

それじゃあバイバイなまらステ❤️厚沢部煮切でしたっ✨




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