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“ぎゅう”がいらなくなった日


娘とはしょっちゅう“ぎゅう“をしていた。
あ。“ぎゅう”ってね、ハグのこと。
いや、ハグって言うとなんかこう欧米的というか小洒落てる感というかそんな雰囲気なんだけれども“ぎゅう”はもっとこうなんて言うのかな、、、密な感じ? “むぎゅう〜っ”
あれま。伝わる気がしないぞ。

とにかく

独身時代に気に入って読んでいた漫画に出てくる主人公の親子が、ことあるごとに“ぎゅう”をしていて、「ああ、もし子どもができたらこんな風に育てたいな」なんてことを考えていた。

きっと自分が子どもの頃に母親にして欲しかったんだと思う。

そんなわけで“ぎゅう”はわたしたち親子のスタンダードだった。

娘が生まれたときからずっと。

ちいさな頃は「愛してるよ」「大好きだよ」の“ぎゅう”
ただただそれ。
あっつい真夏の炎天下で、汗だらだらそれこそ滝のように流しながら(娘はものすごい汗っかき)「まま!ぎゅうしよっか!!」と寄ってくる。
「暑くないの?」と聞くと
「あちゅくないの!!」と満面の笑みで抱きついてきたりしてね。

小学校に入った頃から“ぎゅう”の意味合いが少しだけ変わった。
ちょっと疲れたとき。
お友だちと揉めてしまったとき。
そんな時に
「ねぇママ、“ぎゅう”しよう?」って寄ってくるようになった。

ある意味、精神安定剤的な感じだったのかな。

反抗期ど真ん中の中学生になっても“ぎゅう”は続いた。

小憎らしい屁理屈や反抗期特有のあの腹が立つったらない暴言を吐きながらも
「ねぇ、ママ。最近“ぎゅう”が足りないよ?」と寄ってくる。

さっきまでのあの態度はなんなんだ!!とムカつきもしたけれどまだまだ子どもだ可愛いやっちゃと“ぎゅう”をした。

なんだかほのぼの穏やかな親子関係みたいなこと書いたけど違いますからね。
反抗期に真剣に向き合って壮絶に親子喧嘩してましたからね。
それでもなぜか“ぎゅう”だけは続いていた。

娘が高校生になってとある部活の副部長になった時。
頭が痛くて帰りたいと言いにきた後輩に
「あ!それはきっと“ぎゅう”したら治るよ。はいっぎゅうーっ!ほら、これで大丈夫!」
とやって半分呆れた後輩がなんだか大丈夫なような気がしてきたと帰らずに部活をやったというエピソードを後から聞いて育て方をちょっとだけ間違えたかとクラクラしたりしたけれど。

その頃は
「ねぇママ、少しパワーが足りないの。チャージして」とかなんとか言って“ぎゅう”を要求していた。
そっか、後輩や友だちに“ぎゅう”を分けていたからだったのか。

娘は“ぎゅう”すれば大体のことは解決すると本気で思ってるようだ。


ンなわけあるかい。


そんな娘に彼氏ができて、高校を卒業して専門学校へ行き希望の仕事に就き2年が過ぎた頃、気がついたらほとんど“ぎゅう”する事がなくなっていた。
正確に言うと、娘が必要としてする“ぎゅう”がなくなった。

社会人になったのに茶碗一つ洗いもしない!!とイライラ怒っているわたしに
「え?ママ、ぎゅうが足りないんじゃない?ぎゅうしてあげよっか?」なんていけしゃあしゃあと言ったりすることはあったけど。
そんなん余計に腹立つわ。
と思いつつも“ぎゅう”ってされると笑ってしまうんだけれども。

そしてつい最近、5年付き合った彼氏と一緒に住むと言い出した。
夫もわたしも特に反対する理由もなく、結婚前に一緒に住んでみるのはいい事だと快く送り出した。

住む家を決め、家具や家電を楽しそうに揃える姿を見てるとこちらまで嬉しくなる。
そんな時に何気なく
「そういえば最近“ぎゅう”してないねぇ」
と言ったら娘は
「うん。今は彼氏と“ぎゅう”してるからね。」
とさらりと言った。

ああ。
そうか。
そうなのか。

もうママが“ぎゅう”しなくてもいいのか。

親から大切なパートナーにバトンタッチしたんだ。

寂しいとかそういう感情では全くなくて、そう思った。

この先。
今の彼氏とずっと続いてゆくのかは分からないけれど。
“ぎゅう”はきっと続いて行く。

ああ、なんてしあわせな連鎖だろう。


親にとって子どもは幾つになっても子ども。
それは変わらないけれど、ひとつ親としての役目が終わった気がした。

そして『“ぎゅう”すれば大体のことは解決する』
ンなわけあるかい。
と思っていたけどあながち間違いでもないのかもしれない。

だって娘のためにと思ってはじめた“ぎゅう”は確実にわたしにとってもとてもよく効く安定剤になっていたから。

そんな“ぎゅう”がいらなくなった日のおはなし。

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