「 頑なな自分と小さな角度 」

自分を客観視すること、大切だと思う。
ぼんやりとしたものを、細かく分解して紐解いて明確にしていくことは安心感をもたらす。
「未知」が怖いのだと思う。

私も自分を明確にするための働きかけをしてきたつもりだ。
「自分」のはずが「自分」がバタバタと勝手に暴れて手に負えない感覚。コントロールできないような感覚。そういう自分、まるで自分と異なる一人の「個」として助けてあげたいという思いがあったのだと思う。
どうにか静まってほしい、そんな願う気持ちと共に。
本を片っ端から手に取って読み漁り、心理学の勉学に励み、自己分析を繰り返した。
少しずつ自分の整体が分かってきた感覚がある。「取説」がやっと形になってきた。「自分」歴24年にしてやっと。長かった。
 
沢山沢山考えて悩んで、本を読んで、自分の声に耳を澄ませて。扱いにくい自分のことをまず理解するためにもがいてきた。まずは自分のことを具体的で詳細に知る努力をしてきたと思う。

私は〇〇だと思う。私は〇〇だ。
自分を言い表すことっておおい気がするけれど。それと本来の自分は、はたまた、他者から見える自分はどれくらい重なり、通じているのだろうか。

自らの言葉で、それが良く考えて思考を凝らして丁寧に紡いだ言葉であっても、足取りを重くさせる枷となり窮屈な枠となり、必要自分を閉じ込めてしまうレッテルにってしまう可能性も孕んでいるのかもしれない。

「取説」に制限を駆けられてしまっていないだろうか。

ちゃんと向き合てきたつもりだし、自分のことは自分が一番わかっているとも思っているのだけど、それはどれくらいの物なのかという疑問。

そして、きっと思っている以上に移りか割っているのだと思うし、その移り代わりを恐れずいたいし、もはや変わり続けていたいとも思う。怖がらずに、自由に。
 
そして、何より他人との深いかかわりはとても大きな影響を及ぼすと思う。
がんばってまとめ上げた主張や、自分を守りぬくため頑張って頑張って必死に築き上げてきたの鎧や壁がいとも簡単に壊れている。
壊されるというよりも、本当にいつのまにか壊れている。いつの間にかそっとなじんでいる。凄く柔らかくなっている。
不思議だし、怖いし、少し不安になてしまう。
でも、そういう人の前だと、無敵だった全てをはねのけてきたはずも鎧もすっかり力を失う。意味を持たない。
 
絶対変わらない、変えられないと思う頑なな面がある。
一生自分の付き合っていかなくてはいけないのだなっていう諦めと同時に、少し頑なに強がっている部分。どうせこうなんだと諦めている部分。

以外と自分を変えたいと思ってとびこんだときに、自の変わらない頑なな部分が鮮明に浮かび上がってくることがある。逆にそっちが立ち上がる。
逆に静かな人との関わりで頑なな部分がいとも簡単に打ち壊されることもある。
あれ程必死だったのに、捕らわれていたはずなのに、真逆な思考に心が傾いていたりする。
 
人生思うようにいかない。それは不安を与えると同時に希望もくれる。
あまり考えすぎず苦しくならない程度に、まっすぐ素直に人生を歩んでいこう。きっとうまくいかないことばかり。こうじゃなかったはずなのにばかりなんだと思う。それでも。

色んなものに触れて出会ってぶつかって少しずつ緩やかに方向を、角度を変えながら生きているのかもしれない。
小さな角度であってもその角度によってたどり着く場所は全く変わっていく。
ますっぐ歩いているつもりでもきっとふらふと角度を変えて歩いているんだ。
変わりたくても変われない自分に希望をくれる。

たまに振り返ってみるといい。
取説を読み返してみればいい。

取説は守ってくれる大切な役目を果たすけど、いつでもなんどきでもそれにのっとた選択ではつまらない。
ちょっと冒険してみる。ずるしてみる。外れてみる。

取説は細やかな更新を心がける。
「頑な」は確かに自分を守るけど、その中で「変化」を恐れない。「変化」を楽しめたら。

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