「読書記録 常世の花/石牟礼道子・若松英輔」2024・01・06
・世間は彼女の偉大さを様々な方法で讃えたが、彼女はほとんど関心を示さなかった。彼女は全く異なる姿をした真の偉大さが、虐げられた者たちの日常に潜んでいるのを知っていた。
・人間の存在は、貧富、才能の優劣あるいは身分の高低によってはけっして計られない。外面的なものの奥に、人間の尊厳を感じ、そこに真の語られざる物語を感じようとしていた。
・蠱惑(こわく: 容易に言葉に出来ない、なんとも美しいものに出会った衝撃と喜びを意味する)
・書き手に求められているのは、自らの思いを込め、工夫を凝らすことよりも、思いを鎮め、どこからかやって来る無音の「声」を効き、言葉の通路になりきろうとすることだ。
・「美とは悲しみです。悲しみがないと美は生まれないと思う。
意識するとしないとに関わらず、体験するとしないとに関わらず、背中あわせになっていると思います。そしてあまり近代的な合理主義では、悲しみも美も掬い取れないです。」
悲しみや困難や苦しさは自分の魅力に糧に通じるとやはり思ってしまう。どんな経験も深みのある魅力を作る材料になるのではないだろうか。
・溢れる言葉や、思いがどんどん薄れてしまっているような感覚がある。大人になるって、強くなるって、そういう事なのだろうか。ちょっと寂しい。複雑な感覚。
・本当に語りたい、心から誰かに伝えたいこと、そう願うおもいこそ、言葉にならない。
言葉が足りないからではない。たとえ、どんなに流暢に言葉を用いる様になっても、切なる「おもい」はいつも、言葉の届かないところにたゆっているからである。
だが、世の中は、語られたことで満ち溢れ、人は、語られたことのなかに真実を見つけようとする。そこに原因と結果を探すのである。
・他の人から見れば、どんなに月並みなものであっても、自分にとってかけがえのないものを一人で探さなくてはならない。
生きがいというものは、まったく無個性なものである。借りものやまねごとでは生きがいたりえない。それぞれのひとの内奥にある本当の自分にぴったりしたもの、その自分そのままの表現であるものでなくてはならない。
生きがいは作り出すものであるよりも、すでにあって発見するべき何かだという。
苦悩や悲痛を経験すると人は、生きがいを奪われたと思う。だが、誰も奪いつくすことのできない、真の生きがいが存在する。
・求めているものとの出会いは、かねて予想したように現れるとは限らない。むしろ、それを大きく裏切るような形で人生を横切ることがある。自分の小さな人生を顧みても、幸福を告げ知らせる経験は、歓喜のうちに現れるとは限らず、悲痛を伴う出来事のなかで、その深みをしることもあった。
♡現代人が考えるような「哲学」といういかめしい(厳めしい:人にこわい感じを与えるような、きびしい様子だ。威圧的だ。)姿をしていない。彼女は概念を弄さない(ろうす:からかう・思うままに操る)。
・気になること:祈り
・悪魔が望んでいるのはこの世に悪など存在しないと人間に思わせることだ。
・緒方正人差さん「チッソは私であった」
「チッソを生み、育んだ現代の悪は、自身のなかにも生きている」
単独者であることの意味、さらに言えば独りであらねばならない必然が静かに語られる。