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【30年後の世界へ ― 学問とその“悪”について 第二回未来社会2050 学問を問う】学びの振り返り

【夢を「今」に落とし込む】
哲学や倫理学を大学に行き直して学び直したいと思っていたが、それは遠い未来の話として自ら遠ざけるのではなく、「夢」を「夢」のままにせずに距離を縮めていく工夫を常に考えられたらと改めて感じた。夢を具体的な行為にして日々に落とし込んでいくこと。
大学の講義が無料で公開されているという恩恵。大学に身を置かずとも学びを得られるというありがたさ。上手く活用していきたいと強く思う。
ただ、社会生きていく中ではどうしても「学歴」「肩書」履歴書に書けることはどうしても意味をもつ。いつでも自分を満たすように生きていきたいし、両立までとはいかなくても社会での具体的な価値も自分を守る為に付加していく必要もあると思う。
まさに両義性。反するものをどちらかを手放してなかったことにするのではなく、またいでいくことの大切さ。それが矛盾とジレンマと折り合う上で大切なことなのだと思う。

【何も生まない「学び」でもいいじゃない】
私は賢くありたいと思うし、学び続けていたいと思う。
それはなぜで、どれだけの意味や価値があるのだろうかと思い悩んでしまう。
私が学ぶことで何かがプラスに傾いていくのか、何かに貢献することができるのか。私は変わることができるのか。好きだから学ぶだけでいいのだろうか。
「なたの行動がほとんど無意味であったとしても、それでもあなたはしなくてはならない。それは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである」
という言葉を思い出す。たくさんの情報に溢れる社会でより良い選択をできるようにする為なのかもしれない。
学ぶことで何かを得たいととても自然に考えてしまっていたけれど、学ぶという行為そのものを素直に楽しんでいていいのだと思う。この知識をどうするか、生かしきれないのではないか、落とし込めないと学ぶ意味がないのではないかと、ふと不安に襲われてしまったが、どうもしなくても心に一度通してあげるだけでいいのだと思う。
私には仕事もあって、お金を稼げているのだから、すぐにそういうことに落としこもうとしなくていいのだと思う。何かひらめくことがあったら丁寧に行動に落としこんでいけばいいいのだと思う。これについては他者の意見も知りたいと思う。今の私にとっては、「学ぶ」という行為そのものが、学ぶこの瞬間が幸福であるということ。それ以下でもそれ以上でもないのだと思う。なにも生まないかもしれないし、何も変われないかもしれないけど、そこで生まれるかもしれない小さな角度の持つ可能性を静かに信じていたいと思う。誰か、何かに阿る為ではなく、自分の幸福の為に学び続けていたいと思う。知識はどこまで「私」というものの中に根付き、咄嗟の判断にどれくらい影響をもたらすのか、学ぶことはどこまで私を豊かに成長させてくれるのか、そんな思いが湧き上がってくることもあるり、それを考えることも面白いけれど、ただ素直に楽しむこも大切なのだと思う。

【価値を変える・高める】
価値を変えることの難しさについて。まずは少しずつ少しずつ広げていくしかないということ。ある所まで来た瞬間に大きく広がっていくものだということ。仕事面でも存在としてでも、自分の価値を上げることにも通ずると感じた。“みんな”ではなくまずは1人。みんなに好かれることよりも、たった一人にとっての絶対的な確かな揺るがない存在になりたいと思う。そのために信頼を積み重ねていくこと。急に人気者になったり、立場が上がったりすることは決してないということ。それを忘れてはいけない。
「いつも小さな対象を相手にし、その日にてきぱきと良い仕事をこなしていけば毎日が君に喜びを与えてくれるようになる」

【歴史】
日本語では「歴史」と一語しかないが、Geschicta「事実」とHistoria「解釈」との二つの捉え方があること。一つの事実に対してたくさんの細やかで丁寧な解釈を持てるようになりたいと思う。
事実と解釈を峻別する癖をつける。悲観的に提供された情報も「事実」に対する一つの解釈に過ぎないということ。すぐに強い一つの解釈に引っ張られすぎないようにする。
大幅に揺れる必要があるのか自分事として冷静に考えてみること。大切なのは情報量とその解釈。常に動き続けること。
いつでも今日の自分事として考え、落とし込んでいく。


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