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備忘録

77日、地元に戻り娘たちや兄家族、母に会ってきた。忘れたくないことがたくさんあったので書いておこうと思い久しぶりにnotoを開いてみたのはいいけど、何から書けばいいのか分からず、ずっとPCの画面とにらめっこをしている。


もう4年近く地元には戻っていなかった。それまでは年に12回は娘たちに会いに行ってたんだけど、帰りの車で号泣してしまったり、「ごめんなさい」の感情に襲われ、その後数日間続く放心状態が怖くて逃げ続けていたんだと思う。優しくされればされるだけダメージが大きくなってしまう。

今回戻ろうと思ったのは、「そろそろ会いたいから会いに行ってもいい?」と上の娘から来たLINEが切っ掛けだった。仕事も大変そうだし、娘に迷惑をかけたくないという思いから、オレが会いに行くと返事を返した。

娘が休みをとってくれる事になって行く日が決まった。はっきりとした予定が決まると不安とストレスを感じるのは今も変わってない。娘たちに会うのは楽しみなんだけど、1時間30分も電車に乗ること。兄の家に泊めてもらう事に決めてたんだけど、ほんとは迷惑なんじゃないか。など不安は尽きない。

当日、電車に揺られること1時間30分、全く苦じゃなかった。外の風景を見ているとあっという間に着いた。電車って車より楽だなとさえ思えた。

懐かしい駅の中を少し歩いてから駅を出ると、全く見覚えのない風景になっていて驚いた。懐かしさから、しばらく街の中を歩き回っていると娘から仕事が終わったと連絡がきた。
近くのコンビニの前で待ち合わせることになった。コンビニ前でしばらく待っていると娘が車で迎えに来てくれた。オレは恥ずかしながら娘に気づかなかった。チラッと見て目を逸らしてしまった。顔の写真はたまに送ってくれてたので見ていたけど、全身で見るのは約4年ぶり、4年前より痩せていたし大人っぽくなっていた。20代前半の4年は凄い。「おいっ!」て声をかけられて気がついた。ほんと恥ずかしい。娘の車に乗り、妹と元嫁の住む家に向かった。姉は一人暮らし、妹は元嫁と暮らしている。妹もすっかり大人になっていた。元嫁は仕事が遅くなるという事で3人で、昔よく行っていた居酒屋に夕飯を食べに行った。

3人で近況報告などしながらご飯を食べた。4年のブランクを感じないくらい話が弾んだ。食事が終わり、お会計の時、財布を出すと娘二人に拒否をされた。娘たちにご馳走になってしまった。ちょっと複雑な気持ちになったけど有り難く、二人の気持ちもいただく事にした。

その後、元嫁の居る家に戻った。そこでも四人で話が弾んだ。ほんと有難い。
なぜか話の流れで、オレがもし死にそうになっても延命治療はしないこと、オレが死んだ時、多分娘たちに連絡がいくと思うから、「もう付き合いがないから知らん」とか言ってほしいこと、なんだったら解剖の献体にでも登録しておこうかと思っている。そして共同墓地に入れてくれればいい。そんなことを伝えた。
延命しないことはすんなり受け入れてくれたんだけど、死んだら放っておく事に対して姉の方が言った言葉は「そんなことできるわけない」だった。それに対して妹は「とうちゃんがそう望むんならそれでいい」だった。そしてなぜか元嫁が「私が生きてるうちはそれは許さない、子供に迷惑かけたくないって思いは分かるけど絶対無理」と言って泣き出した。正直驚いた。

「えー!死んだらただの抜け殻だよ、ただの肉の塊だよ、わざわざ遠くまで骨取りに来てどうすんの?」てオレが言った時、姉は「家に置いとくよ」それに対して妹は「あのほら!貝殻飾るみたいにして飾っておくよ!」とサイコパス的発言。さすがオレの娘だなと思った。「レジンで固めてペンダントにしたりね!」とか言ってオレと妹二人だけで爆笑していた。
多分これはオレの身勝手な考え方なのかもと後で思った。死んでしまったらその後のことは、生きてる人たちの問題だ。このことは娘たち二人で話し合って決めればいい。と言うところに着地してこの話は終わった。 


ちょっと話がそれるけど、長い間うつ病を患っていて心筋梗塞で3/1だったか4/1だったか忘れちゃったけど、壊死した心臓でしばらく生きてた人って解剖の献体として需要あると思うんだけど、別に珍しい物でもないのだろうか? 

話戻って...。 
話が弾みすぎて、予定より大きく遅れてしまったけど、この後娘の運転で兄の家に向かった。

兄も義姉も甥っ子も嘘のない笑顔でこころよく迎え入れてくれた。オカメインコもずっと肩に乗ってくれてた。
分かってはいたことなんだけど、ほんとみんな優しい。義姉はまずオレの体の心配をしてくれた。兄はバセドウ病を患っているんだけど、思ってたほど悪くないようで安心した。ここでも話が弾んだ。楽しい時間はあっという間に過ぎてしまい、12時ころ就床した。

次の朝、兄と甥っ子が仕事に行くのを見送った後、娘が迎えに来てくれる時間までの2時間くらい、義姉との話が楽しかった。兄と義姉が結婚する前、うちの実家に遊びに来た時のこと、うちの母は無自覚で人の心身を削るのが得意な人で、義姉はうちに遊びに来るたびに一週間くらい引きずるような傷を負っていたという事を初めて話してくれた。そこで無意識だったように思うが、オレが母に対して発してた言葉が義姉を救ってたということ。弟のオレが助けてくれてるのに、なぜ兄は何も言ってくれないのか?という兄への不信感(笑)があったこと。オレが助けてくれてなかったら、きっと兄とは結婚してなかっただろうということ。兄と義姉に離婚の危機があったこと。義姉が若い頃、希死念慮に襲われ続けていて、何度も包丁を胸に突き当てていたこと。オレが2年くらい前まで、身の回りのもの、外に出れば見るもの全てが死ぬ道具に見えてしまっていたこと。最後には「死ねばいい」にたどり着いてしまう思考のパターンを持っていたこと。甥っ子が何年か前に、仕事で悩んでしまって失踪してしまったことがあったことなど、書くとキリがないのでこの辺で止めるけど、お互い今まで話せなかった事をぶっちゃけられて良かったと思う。
最後に、もうお互い、いい歳になった事だし、隠し事しないでなんでも話そうねって約束をした。義姉は驚くほど穏やかで優しい人だ。兄は義姉に出会ってから人が変わった。義姉に出会って初めて人間になったとオレは思っている。

娘が迎えに来てくれて、義姉にお礼と挨拶をして兄の家を後にした。車で30分くらい走ったところに、今は知らない人が住んでいるオレの実家がある。まずは親父の墓参りをして、オレの好きな地元の神社に行ってもらった。そこで初めて知ったんだけど、神社の隣の施設に母が居ると娘が教えてくれた。

母に最後に会ったのも、約4年前だった。

その時、母には会いたくなかったのだけど、どうしても実家に寄らなければならない用があり、母が居ないことを願いながら実家に行ったのを覚えている。
そんな願いも虚しく母は家に居たのだけれど、そこで会った母はオレの知っている母ではなかった。オレに会えたことを喜んでくれて、何ひとつ小言を言うでもなく、帰りには家庭菜園で採れた野菜をたくさん持たせてくれた。「もうやめてくれ、憎たらしいままの母親でいてくれ」そんなことを思いながら、もうこれで最後にしよう。この思い出を最期にしよう。次に母親に会うのは母の葬儀の時。そう決めていた。
その1年後だったか、母が3度目の脳梗塞で倒れた。

過去記事を見て思い出したのだが、ちょうどオレが、もう死のうと決意したにも関わらず、生活保護の説明を聞きに行き、申請しようとしていた頃だ。「生きることを選んでしまってごめんなさい」の真っ只中だった頃だ。何を言っても言い訳になるが、こんな自分のことで精一杯の状況の中、倒れた母のところに行く気にはなれなかった。母の面倒を見てくれて、施設の手配や実家の処分など全て兄と上の娘がやってくれた。

オレが母を嫌っていることを多分娘は知っている。直接言ったことはないが、勘のいい娘は気づいていたのだと思う。「面会行かないしょ?」娘に言われた。今回地元に戻ると決まってからずっと考えていたことだったが答えを出せないでいた。
「ここで会わないで帰ったらきっと後悔する。」その時頭に浮かんできたのがこれだった。娘に面会して行くことを伝えると、すぐに施設に電話をしてくれた。この時午前11時頃、 電話をしてくれてた娘が「面会時間午後の3時からなんだって」そう聞いて一瞬諦めたんだけど、電話を代わってもらって、遠くから来ていて、なかなか会いに来れないのでなんとかならないでしょうか。みたいなことを伝えると、上の者に相談して折り返し電話しますと言ってくれた。結果、面会できる事になった。

母の状態は誰からも聞いてなかった。4年前に会った時はかなり痩せてしまっていたので、もうあれ以上に痩せてヨボヨボになってるんだろうな。とか、もうボケちゃってオレのこと分からなかったりするのかもな。とか思っていたんだけど、目の前に居た母は車椅子には乗っているが、前よりかなり太っていて、肌艶も良く健康そうだった。テーブルに着くと、目の前には意味のない(個人的な意見です)パーテーションが置かれており、母に触れることもできないなと思った。
10分くらいでお願いします」施設の方がそう言って事務所に戻っていった。母はかなり喜んでくれていた。右手は全く動かないし、言葉も少し聞き取りにくい。歩けなくなったことを嘆いてもいた。こんな状態で生きているのが嫌だとも言っていた。
そんな話を聞きながら、オレは母の座っている車椅子を見て、最近の車椅子ってシンプルになっているな。きっと軽量化もされているんだろうなあ。とか、全然関係ないことを考えていた。
「みんな死んじゃったねー」とか「バアさん最後まで生き残っちゃったねー」とか3人で笑いながら、オレは少しわざとらしいくらい明るく話していた。「○○(娘の名前)が施設の職員さんの間でかわいいって評判なんだよ」と母が言った時も「そりゃオレに似てるからな」とか、ほんとわざとらしいくらいの笑顔で返した。娘からは「うっせえわ!」て言われた。

そうこうしてるうちに、何を思ったのか母が鞄から財布を取り出し、器用に口で財布を開けて、オレと娘にお小遣いをくれようとしてきた。おいおいやめてくれ。心の中でそう思いながら、なぜか泣きそうになっていることを誰にも悟られないように、「誰もお金に困ってないから早くしまえよ」そう言うオレに、「もう好きなものも食べられないし、使うこともないから早く受け取れ」と言う母。糖尿だし太ってきたしで食事制限もされてるらしい。
「もう好きなもの食べてコロッと逝っちゃえよ」と言うと母は笑っていた。それでもなかなか引かない母に娘が言った一言「もうばあちゃんいいから自分の葬式代に貯金しといてっ!」ここでもまた、さすがオレの娘だなと思った。たくさん面倒見てきたんだから、それくらい言う権利はある。それでも母は笑っていた。そしてオレが、パーテーションの向こう側に手を伸ばし、お金を財布にしまって鞄に入れて、この騒動は治った。「そうかい...」と残念そうに言う母の顔が印象的だった。
面会時間は10分間のはずだったんだけど、30分くらいは話をしていたと思う。
帰り際、施設の方に無理を聞いていただいた事のお礼を言い、母には笑顔で手を振って別れてきた。
母は4年前に会った時より、心も体も丸くなっていた。憎んでいた時の母とはまるっきり別人だった。半分くらい向こうの世界に行っちゃってるのかもしれないと思うほどだった。仏様のような笑顔だった。
死ぬまでこの人は変わらない。そう思っていたんだけど、違っていたようだ。
恥ずかしながらオレは母親の歳をはっきりと知らなかった。今年で83歳になったそうだ。生きてるうちに、あと何回会えるだろうね。


施設を出て、娘が子供の頃、もそうだけど、オレが子供の頃ひとりになりたいときによく行っていた、実家の近くの思い出の川を少し散歩してきた。この時一瞬だけ降った霧吹きみたいな天気雨が、なんだかこの土地に歓迎されてるように感じた。

この後、妹と元嫁の住む家に戻り、元嫁が仕事から帰ってくるのを待ち、昔よく行っていた、オレの知り合いの親がやってる焼肉屋さんに4人で行ってきた。オレのことを覚えてくれていて、少しだけだったけど話ができて嬉しかった。
前の日は娘たちにご馳走になったし、ここはオレが払うからって言ってさっさとお会計済ませたんだけど、後から娘二人に割り勘にされてしまった。娘たちの真剣な眼差しに負けてしまった。ここで、オレって情けないオヤジだな...。と思わないようにしなければいけないと思った。

このあと電車の時間に間に合うように、娘に駅まで送ってもらった。いっぱい運転してもらったし、今ガソリンめっちゃ高いし、娘にお金を渡そうとしたら全力で拒否された。「葬式代貯金しといて!」ていわれた。ん? デジャヴ?

楽しくて内容の濃い2日間を過ごさせて貰った。


今回、娘たちや兄家族に会って思ったんだけど、オレの気を遣う性格やなるべく人に迷惑をかけたくないと思う考えかたは独りよがりなのかもしれない。多分みんなオレのことを疎ましく思っていない。そんなことを再確認できたと思う。オレの思考は優しさではなく、自分を守りたいだけなのかもしれない。

こっちに戻ってきてから、少しだけ寂しくなったり「ごめんなさい」に襲われてしまったけど、行く前に恐れていたような寂しさからの放心状態などにはならなかった。最低でも年に一度くらいはみんなの顔を見に地元に戻るようにしたいと思う。娘二人と元嫁、兄家族には感謝しかない。ほんとにありがとう。

この気持ちを忘れないように、死ぬまでしっかり生きて行きたい。


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