塞いだ手を取ってみた(世界は結構明るい)
note初めて1年がたった。
始めたきっかけはカビだらけの曲がりきった考え方とか感情をナントカ見れるものに変えて認めてあげたかった供養だったわけであるが、文章にするというのが結構難しく記事数は極めて少ない。
以下がちょうど1年前に書いた自分の生い立ちもどきである。
30という数字はただの数字だし成人して大人とされてからたったの10年であって全然大人ビギナー。
しかし世間はそれを許してくれないことが多い。
【大人】であることを強要されてしまうし、それこそ私は女であるので【大人の女】の型を求められる。
奇抜な服は身につけず、一定のお高いブランドを取り入れ、アフターファイブを楽しみ、ギャーギャー騒ぐことはせずに大人のアクティビティに勤しむ。
そして友人や恋人と関係性深め家族を作る。
それなりに資産もあって、賢く慎ましい大人の女。
男も同様に【大人の男】を求められる。
(実家暮らしがどうだとか年収がどうだとか、より物質的なことを求められる気がする)
世間は【女子ってwwwwいつまでそんなこと言っているんだ】と嘲笑するけれども、数字が切り替わった瞬間に大人の女になれ!という方が難しい。
圧倒的に【少女】や【女子】であった時間が長いのだ。
そしていくつになってもハンバーグやらカレーは美味いし、冒険やわかりやすい正義のストーリーにはワクワクしてしまうのと同じで【少女性(少年性)】は100歳になっても変わらないはずである。
ただちょっと、大人になった女達の少女性が商売と相性がいいだけなのである。
去年の私はnoteを見る限り地縛霊のような怨念の具現化のような心持ちであった。
たった1年でこんなに見方って変わるのか、なんてご都合主義!なんたる軽率!と自分でびっくりしている。
自分のほの暗さを作り出して呪いに変えて動けなくするのは他者ではなく圧倒的に自分なのだということを痛感した1年だった。
あれだけ【キャラクター】として自分を決められることを嫌がり腐っていたというのに、30年間周りを固定していた。
優しさや愛情を受け入れるというのは、過去の自分や自分の弱さを認知し、触られるということで何ともむず痒い痛みが伴うので、この複雑な感覚を受け入れるのが嫌なだけだった。
鬱々としているときなんて自分は無価値なんだろうと嘆き、目と耳を塞いでそれを認められなかった。
【生きている意味なんてないし生きたくもないけど死にたくもない】なんて、黎明期のボカロですか?という戯言を言いながら可哀想な恵まれない自分の人生を気に入っていた。
なんと厚かましく、お高くとまっていたのだろうか。
楽だからだけど。
不幸というのはとってもお手軽に楽になれるアイテムである。
全部周りのせいにすれば、周りが可哀想だと頑張っているねと声を掛けてくれる。
何もせずとも出来ない言い訳がそれらしく正当化されるからだ。
(辛いのは辛いけど)
そしてなによりガッカリが少ない。
行動に対する報酬がハッキリしている。
それが悪いことであったとしても、行動に対する報酬があるというそのルーチンが心地よく抜け出せなかったりする。
あーやっぱりこうなったか(笑)
なーにが(笑)だよ。腹が立つ。
寝不足のところをオトンに邪魔され、それを怒るオカンの会話でなんて幸せな家庭にいたんだろうかと独特の自覚をしてしまった訳だけども、家庭のことだけでなく今まで【可哀想な環境】と見てきた場所は多数が全く真逆のものだった。
謎のむず痒い痛み、多分治りかけのかさぶたに現れるあの感じ。
未熟が故に他者からの攻撃と自らの攻撃でズタズタになった心にようやくかさぶたが出来ていて、それがいま治って剥がれ始めているという所であろうが、ここで無理やり剥がしてしまってはならないのでこのむず痒さに耐えなければならないのだが、何とも春らしいと思う。
メダパニ暴発からようやっと正気に戻った。
性愛だけでなく、全てにおいて恋をするというのは確実にそこにあるのだ。
杉とパクチーだけは愛すことが出来ないが、私が愛さずとも他の誰かがやるだろう。
全て見えていると思っていたけども、メガネやコンタクトと同じように自分に合ったレンズを、曇りをとってつけてみたら全く見えてなかったことに気がつけるし、なんとも世界はキラキラしていて鮮やかで複雑だった。
きっと来年さらに鮮やかになっている。
30という大台をこえて、自分的な大決断と挫折を味わって、世間の言う【大人の女】の型をお断りして、自分の少女性を認知してみたらなんとも素敵な人生であった。
生きている意味なんて相変わらずなければ、価値なんてないのだけども、そんなもんは当たり前だし自分で決めることではない。
無価値であればあるほど、何もしなくて良い。
実は素敵な無責任に溢れるのだと思った。
(何でもしていいって訳じゃない)
そして無駄(無意味)はかなり楽しい、ばからしければばからしいほどに物事というのは楽しい。
無意味を嘆いている場合ではない。
生きているってのはハイパー無意味だけれども、無意味だからこそ飯を食ってうんこをするだけで意味が持てる素晴らしい状態なのだから。
そんな中それ以外に社会貢献だとか人のためだとかナントカとか、やりたくなくてもやってしまう現代人はみんな見上げた聖人だ。
与えられている無意識的当たり前的愛情を認めたら、意外と自分も周りをもれなく愛していたし、世界は愛に溢れている。
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