つまるところ
noteを開かなくなってかなり経つが昔書いた記事が懐かしくなってまたアプリを開いた。
30を目前とした私のオバサンと少女の間で揺れ動く自分語りはとても香ばしく全くもって可愛げがなく可愛いと感じてしまった。
30を目前にして〜というタイトルのその記事は鬱屈としてやり場のない馬力に溢れていて若々しい内容となっていて、当時の私は自分の歩んできたこれまでをなんとまあ悲観的に捉えていたんだと感心した。
悲劇のヒロインを嫌いながらもそんな自分を周りに受け入れて欲しい心が丸見えである。
これに限った話では無いが、やれ「裏切られた」「こんなにやってあげたのに」と思う気持ちは誰しも多かれ少なかれ持っている。
そして幼少期ちゃんと育てて貰えなかった人間は受け入れられることに慣れず、愛に慣れず、はたまた見えないもので満たされるということが難しくなってしまうんじゃないかと思う。
ここで言う【ちゃんと育ててもらう】というのは心の話。
甘えられるというのはとても豊かで子供の頃に許されないと身につかないものでそれはそれは自分の首を絞める結果に繋がる。
尽くしすぎて都合のいい相手になる
貢ぎになる
DVから抜けられない
リセット癖がつく
周りと比べて自分を否定する
……等々
書き連ねればきりは無いが詰まるとこ自分の価値を他者の評価に委ねることしかしないくせに他者を受け入れる耐性がないがために結局孤独を拗らせて自滅するというものだ。
再三再四言い続けているがそもそも産まれてきたことに、生きていることに意味がある命なんてものはない。
特に人間は。
そもそも価値ってなんなのさ。
容姿?
家系?
他人からどれだけ誘われるか?
友達はいるか?
恋人がいるか?
金があるか?
ちょっと冷静になって欲しい。
物事には必ずと言っていいほどに対になるデメリットがあるものだ。
それに世の中に普通がないのと同じように、普通は十人十色、三者三様、有象無象なのである。
俗に言うメンヘラの自己評価の高さはエベレスト級だし、それに反比例して自己肯定感が低くなるんだろう。
人に向ける態度こそ、回り回ってその人から自分への態度になるのだとおもう。
要するに、大切にされたいならば周りを大切に顧みなさいということである。
そして自分の奥底にある孤独な少年少女を救い、満たすために確実に出来ることは赤の他人を介して実を成すことである
当時自分を見失ってしまっていた私には想像もつかない今、私は介護士なんて仕事についている。
今考えれば、少しばかり寂しく厳しい子供時代を送っていた私にとって、寝起きから3食、その他のメンタルフォローまで甲斐甲斐しく世話を焼かれ「頑張ってるね」「さすがだね」と周りから認めて欲しく可愛がられたいという欲求は常にあって、夜の蝶となり他人を慰め楽しませ褒めたたえ、時には介抱することで自分をいたわっていた。
それだけでは飽き足らず介護という仕事を媒介にボロボロに傷つき我慢し続け育ちきれなかった自分の心を、利用者を介してケアしている。
とても満足しているし、健康的な心持ちになったと思う。
自分がされたかったことは、他人からしてもらうことで満たされることはほぼない。
他人へ優しくすることでしか自分の心根は癒せないのだと思う。
悩み苦しんでいる若人諸君に置かれましては、1度立ちどまり被害者の椅子を捨て与えられることからの依存を与えることへの依存への移行を実施して欲しい。
そんなことをうんこを撒き散らしながら闊歩する高慢おばァの対応をしながら、不穏で顔つきの変わったおばァの対応をしながら思ったのであった。
人間は素直であればあるほど可愛げが生まれるものだ。
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