代わり映えのない毎日を憂うな

呼吸と飲食しか習慣になっていない私なので当然あれだけ毎日書いてたnoteももう何ヶ月ぶりに書くのかわからなくなってしまった。

いつの時代も代わり映えのない毎日を憂いたり、無計画に地元を飛び出し上京、酒とタバコと男と女、先を気にすることがなかった若い日々をエモい(笑)と懐かしみ美化する歌が流行り横行する。

人はいつだって正当化したい生き物だから仕方ないんだと思う。(正当化の方法が陰キャのイキリとは違う気色悪さがあるので私の好みではない)

第一、そもそも、当然ながら毎日同じ時間に起きて同じ場所に向かい同じ仕事をこなす(学校とか)。
休みの日もSNSをダラダラと眺めるだけの生活をしていて代わり映えするわけが無いのだ。

そんなことを何故わざわざ歌にして憂いているのか全く分からない。
代わり映えさせてないのは何より自分自身なのにまるで人のせいとは一体どういうことなんだろうか。

何も別に仕事を変えなくても、家を変えなくとも、いつもシャワーのところを湯船に浸かるとか銭湯に行ってみるとかそれくらいのことで充分非日常だ。

悲劇のヒロイン(ヒーロー)ごっこは今日も変わらぬ盛り上がりを見せていて大変愉快だ。
そんなに君らの人生において、日常を脱することは難しくないし、超大事件が起きなきゃつまらないなんて大層な人生を歩んで居ることを自覚している時点で恐らく君らにそんな大層なことは起こらない。

しかしながらそんな物語の主役達を後目に私はモブらしく大きな悲劇もなく、若かりし頃のナンチャラをエモいとすることも無く社会人生活を営む。
残り少ない代わり映えのない毎日を楽しむのだ。

変わらなくていいというのはなんとも素晴らしいではないか。
ただでさえ内部的な現状維持は対価であって対外的な現状維持のためには少しの努力が必要だし、それに少しプラスして(もう下手したら倍の労力で)成長しなきゃならないなんてのは大変以外の何物でもないし、人類が現れてから常に怠けるために進化してきた文明に反している。
常に多数にいたいと少数派をキモーイとか、変わってるよねとか個性的だよねとかで排除してきたでは無いか。

一体全体何がしたいんだ。

誰よりも普通を望んで生きてきた君たちが【代わり映えがない】【普通の毎日】を欲しがるなんて天邪鬼がすぎるぞ。

ちなみに私は日常に飽きたり疲れたりした時には果物をしこたま買って食べることにしている。
昨日はイチジクを買って人生で初めて食べたし(ネギっぽいというか青臭いというか独特な味であまり好みじゃなかった)、天赦日にあやかっておいせさんの入浴剤を入れたし。
今日もきっといつもと違うことを幾つかするから全然代わり映えするのだ。

つまらないことに慣れて、ここは自分の居場所じゃないだの本当の自分じゃないだの抜かしてないで、とっととしょうもない音楽に陶酔するのはよして鏡をみろ。
それは紛れもなく自分自身であって他の何物でもないのだから、食べたことない飲んだことない見たことがない何かを手に取って味を見てみたらいい。
昨日までの知らなかった自分ではなくなるじゃないか。


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