超「支援型子育て」を目指すということ
先日友達に、「きょんちゃんの子育ての仕方って、支援型の子育てって感じだね」と言われて、
なんかそれ、すごいいい響きだな...と思ったのです。
支援型子育て
きっと子育て業界ではすでにずいぶん前から使われていて、とっくに使い古された言葉、なのかもしれませんが、私は初めて耳にして、これ、やたらしっくりきまして。
そうや!私のしたいことは「支援」なんだ!ととても気に入ったのです。今日はそんな「支援」をテーマにしたつぶやきです。
■子供がかわいいわけじゃない。ただ、責任を感じる
私が子育てに興味を持ち始めたのは、実は去年くらい(娘が5歳になったくらい)からで、それまでは全く興味がありませんでした。
それまでは自分第一!夫婦第一!で、子育ては完全に二の次。でも、去年くらいから色々と変化があり、興味関心がどんどんそっちにシフトしてきまして。
昨日夫とランチを食べていたとき、改めて子育てについて考えた私が夫に伝えたこと。
「私はべつに、娘がかわいくて仕方ないから子育てに向き合おうとか思い始めたわけじゃないねん。かわいいとか特にないねん。
どんどん自我が芽生えて、自分で考える意思のある大人にすごいスピードで向かっているあの子に気づいたときに、こりゃちゃんと向き合ってやらなあかん!この子のいいところを潰さないように向きあってやらんと芽を摘みかねない、という責任を感じ始めてん」
夫はしばらく空を仰いで...
「すごいね。俺、なーんも考えてない!(爆笑)」
と...
■子供は「授かりもの」ではなく「預かりもの」
娘は5歳くらいから明らかに変わりました。
それまでは、「マイペースな育てやすい子」という感じでしたが、明らかな意思を持って発言し始め、時に親に反論し、すねたり怒ったり、好みもはっきりし始めました。
それまでは、親が好きなようにコントロールできていたのが、やりにくくなって、「一人の人」として尊重しなくては、付き合いにくくなったのです。
子供に明らかに「自分とは違うもの」「親の遺伝とは別の要素」を見つけたときに、初めて子供をちゃんと「人」として認め、「将来の大人」として向き合う覚悟ができ、
子供だからゆえにできないことや知らないこと(漢字が読めないとか、髪が上手に洗えないとか)を支援しながら、彼女の考えや意思(好き嫌い、これがしたい)は尊重した子育ての仕方ができないか、と考え始めたのでした。
子供は自分の所有物ではないし、「一人の人」であって親のコピーでもない。
当たり前のことなのですが、目の前にその事実(子供がどちらの親にもない能力や性格を持っていたりするとか)を突きつけられるまで、ちゃんと腹落ちした形では認識できていなかったのかもしれません。
恥ずかしいことですが。
「子供は授かったものではなく、預かったものだ」と考えればいい
以前友人がそんな言葉を言ったことがあります。その時はいまいちわからなかったけれど、今ならわかる!
「子供は授かりもの」とよく言いますが、授かるってまさに「所有物」って感じですよね。だからつい、親は子供に自分の理想を押し付けたり、夢や希望を託したりしてしまうのではないかなと思うのです。
でも、子供が自分の「友達」の1人のような、「一人の大人」と考えたとき、その人に理想は押し付けないし、夢も託しませんよね。
子供ってただ、世の中に「1人の大人」になるべく生まれてきただけなんじゃないでしょうか。
そして親は単にその「1人の大人」をたまたま預かって、必要な知識や能力をつける手助けをして、魅力や個性を見つけてあげ、世の中にリリースするという仕事を担っているだけなのでは?
そして、その仕事を遂行する中で、親も学び成長させてもらうことがある。
なんだか、新製品を発売するプロジェクトみたい。
そんな風に考えたほうが、私にはなんだかしっくりくるなと感じています。
■超支援型子育てに向けて
「支援型子育て」すごくいい言葉!
私はここに「超」をつけて、「超支援型子育て」でいきたいと思います。
これ、どうやってやるのか考えていたのですが、子供の言動についてまず切り分けることが大事なのだなと思っています。
とてもシンプルな話なんですが、ただそれだけかな、と。
あと、他に大事なこととして、「信じる」というのもあるかな、と。
私の子育てに関する考え方に対して、「俺、なーんも考えてない(笑)」と言っていた夫ですが、夫は娘を信じているのだそうです。
「あの子は大丈夫だよ。あのままで、ちゃんとやっていけるって信じてるし!なんも考えてない俺ときょん(←私のこと)と、いいバランスだな!」だそうです。
おおらかに構えながらも、心の底で強く信じて見守る夫と、ポリシーを持って臨もうとする私と。
確かにいいバランスかもしれません。
そして、これはどちらも欠かせない「支援」なのではないかと思うのです。