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子供の「褒め方」と「褒めるという行為」そのものについて考えた

15秒で分かる今日のポイント
●娘の懇談会での先生のお褒めの言葉を受け、「娘を褒めたい」と思った
●でも、「先生に褒められたから褒める」は子供の行動を歪める可能性がある
●「子供の行動そのもの」を褒めることが重要
●子供との対等性を意識したとき、「褒める」のではなく、「喜ぶ」のほうが適していることが多いかもと考えた

■娘の懇談会での意外な評価

先日、小学校1年生になった娘の、初めての懇談会がありました。

私も夫も娘が集団の中でどう過ごしているかは全くよくわからないので、ちょっとドキドキして向かいました。

保育所時代の懇談では、毎年必ず「マイペースな子ですねー」と言われていた我が娘。

みんなが絵を描いていても一人だけ本を読んでいたり、
みんながお昼ご飯を終えてお庭で遊んでいても、一人でいつまでもお茶をすすっているようなタイプで、


「集団行動」を強いられる小学校で、やっていけるだろうか?

とちょっと心配していました。


ところが、先生からのフィードバックは親も想像していなかった内容でした。一番最初に言われたのは、

「一人で生きていける、とても強くて安定感のある子です」


親は、「え?!(ポカーン)」


先生曰はく、

〇とにかく明るくて、常に一定してハイテンション!
〇前向きな発言が多く、何でも楽しもう!という積極性がある
〇周りへの配慮があり、困っている子がいると進んで助けに行く

だそうで、


有り余るお褒めの言葉に親は…

それ、本当にうちの子でしょうか?同じ名字の子、他にもいませんか?

と聞いてしまったほど!笑



■家訓がちゃんと伝わっていたことが何よりうれしい

親として一番うれしかったのは、

〇前向きな発言が多く、何でも楽しもう!という積極性がある

という点でした。

というのも、これは我が家の家訓そのものなのです(これ、我が家の家訓です↓)

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家訓は、家族の「背骨」のような存在です。お持ちでない方は作成することも!詳しくは以前のブログをご参照ください↓


娘が普段からそういう子かというと、そうでもありません...

けっこう臆病ですし、「どうせ私なんて...」といった後ろ向きな発言も多く、私たちはそのたびに「我が家の家訓はなんだっけ?楽しんでいこう!」なんて伝えてきました。

それが、おぼろげながら伝わっていたのかもなぁと思ったのがとてもうれしかったのです。



■先生に褒められたから「褒める」はおかしい

帰り道、夫と2人、「帰ってきたら褒めてあげよう!」とか、「あの子の好きなすいかでも買って帰ってあげようか」なんて話していたのですが、

どうやって褒めるかって大事だな、と思いまして。


こういう時ってつい

「先生がこんな風に褒めていたよ!偉いね!」となりがちですが、「先生に褒められたから褒める」は明らかにおかしいですよね。

先生に褒められるから偉いんじゃない。

これ、はっきりしておかなくてはいけない点なんじゃないかと思ったのです。


先生は神でもないし、先生がすべてを見ているわけではない上に、あくまで先生の「主観」で見た「好ましい行為」なわけで、「正しい」というわけではない。


それに褒め方1つで、「先生に褒められることが目的」になってしまうこともあり得る。


別に「褒められたいからしている」わけではないであろう娘の行為を変に歪めてしまう可能性もある、と思ったのでした。



■「娘の行動」そのものを褒めるということ

じゃあ何を褒めるのか。

先生が語ってくれたエピソードにこんなものがありました。

「クラスで1人、ちょっと情緒不安定な子がいて、絵を描くときに泣き出したり絵の具を投げたりするんですが、いつもその子をフォローしてくれるんです。恩着せがましくなく、さりげなく横で一緒に絵を描いたりして、『楽しいね』と声をかけてあげたりするんです。本当に優しいなぁと思いまして」


その日の晩、その話について、娘に聞いてみました。

娘は「だって先生がいつもその子のことですごく大変そうだから、何かしてあげたいと思って」と言っていました。

「そうか。それは、その子にも先生にもきっと助けになっていると思うよ。あなたの人を助けてあげたいと思う気持ちが素敵だし、お母さん嬉しいわ」

そう伝えました。


娘には、先生の話で娘の普段の学校での様子が分かったこと。
娘の色々な行動をとても素敵だなと感じたこと。
何より娘が楽しんでくれたらそれでいいこと、
を伝えました。



■「褒める」のではなく「喜ぶ」

ぶっちゃけ褒めるって、結構上から目線な行為だと思ったことはありませんか。

もちろん「褒める」って悪いことではないし、子供にとっても喜びだと思うので、それを頑なに拒否するつもりはないのですが、

娘との「対等性」を考えたときに、「何かができたから褒める」ということに時々違和感を覚えます。


例えば、料理を手伝ってくれたとき、「偉いね~」と褒めるのではなく、「ありがとう」でいいよなぁと。

家族なので、協力し合うのは当たり前で、一緒に食べる料理を手伝うことは特別なことではなく、日常的なことでよくて。

でもその行為には感謝したい。なら、「ありがとう」だよね、と。


例えば、私が苦手な絵を娘が上手に書いていたり、面白い色使いで書いていたら、それは純粋に「すごいね!」なわけで。

それは褒めているというか、「驚き」や「才能への称賛」であって、子供だからとか娘だからとかではないんですよね。



今回の話について、私は娘を純粋に「すごいな」「素敵だな」と思いました。

私が同じ小学校1年生の時、先生を助けてあげたいと思ったことなんてなかったと思うので、それは本当に「すごいな」と。

上から目線の「褒め」ではなく、彼女の性質への純粋な尊敬の念です。

そういう気持ちで褒めるのと、上から目線で、親として何かを「承認」するような気持で褒めるのとではやはり違うなと思うのです。



娘はまだまだ子供ですが、私にはない優れた性質をたくさん持っていて、それを近頃ビンビン感じるときに、「対等性」という言葉が頭に何度も浮かぶようになりました。

今回のように何かを褒めたい!と思う時、その「対等性」を意識すると、褒め言葉以上に「〇〇な気持ちが嬉しい」「〇〇な行為が嬉しい」と伝えるほうがしっくりくるな、と感じることが多くなってきました。


我が子を褒めたくなったとき、それがどういう理由なのか、どういう立場からの「褒め」なのかを意識すると、使う言葉も変わってくるのかもしれません。

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