自分勝手
朝焼け間近の薄い暗闇をたたえた海。それを見渡せる、いくらでもどうぞと言うような柵のない岸壁。前からかすかに波の音、足下からは砂が鳴る。こんな場所が日本に存在する。
ここで何をするつもりなのか、などは愚問かもしれないが、来てすぐに済ませられるような話ではない。
そういう人たちは実行する前に何を考えるだろう。決意がみなぎっているのか、あるいは絶望が支配しているのか、むしろ安らかな気持ちになるのか、やはり悲しみにあふれているのか。そのどれもがない交ぜになった、形容しがたい感情なのか。またはそのどれでもない、虚無に支配されているのか。私の場合は最後に近い。
頭に浮かぶ抽象的な言葉をひとつずつ拾ってみる。そうするしかない、退屈、ピリオドを打ったほうがいい、ほかにできることがない、虚無、いままで死を選ばなかった理由がわからない、無意味、やらないといけないと思ったはじめてのこと、とか。
そんな理由で死んでいいのだろうか。いいとは誰も言わないだろうが、それは私の疑問と微妙にすれ違った回答だろう。コンセンサスをもらいたい相手も、深く考えるつもりもない。
じゃあ、そろそろやろうか。一歩踏み出したとき、私にだろう、声がかけられた。
「ねえ」
振り向くと、二メートルほど離れたところに立つ女の子と目が合った。
その子は、なんというか、アニメキャラが現実に出てきたような異質さを放っていた。前が開くタイプのピンクのパーカーの中に、黒地に英語で世界平和を願う文の書かれたTシャツを着て、いまは冬なのに腿の半ばまでもない薄青のデニムを履いている。靴は黒くて厚底のシューズだった。目はぱっちりと大きく、形の良い眉をしている。髪は黒のショートで赤いメッシュが入っていた。顔が良いから何をしても許される、という印象のファッションだった。メイクや服のせいもあるだろうが、十代の中盤程度に見える。死ぬことが目的の人間を見たためだろうか、恐る恐るといった感じの目をしている。
声こそ上げなかったものの、私もとても驚いた。ここに用があるのは私のような人、または写真が撮りたい人などだろうか。しかしバッティングするとは思っていなかった。
黙らざるを得ないと感じる時間の後、少女がその小さな口を開いた。
「やっぱり死ぬんですか」
風が吹かず、波の音も届かず、人気もないはずの場所にひびく少女の声。ただ、問いただそうとする語調の強さは感じる。一応敬語を使ってくれているが、不思議と丁寧さを感じない声色だった。他人だし。
「……」
正直に答えたらいいのか。というか会話を始めるつもりなのか。「あなたもですか」などと軽口を返せばいいのか。迷っているうち、追って発言があった。
「質問が悪いですか? 今からそこに落ちて死ぬつもりですかって意味です」
「いや、わかるけど」
それで、そうだけど。とも付け加えた。
「そうですよね」
私の返事を聞いた少女の声と表情は、相手を落胆させてしまったような気持ちを私に味わわせた。死を選んだことを残念に思っているのか。見ず知らずの他人なのに。または、思った通りでつまらないということか? しかし「勝手なことを」といういらだちの気持ちは湧かなかった。私にはもう何を期待されても困る。
その表情をしたあと、少しもしないうちに少女は、はっとした素振りを見せて、再び口を開いた。
「でもそれにしてはおかしい。お姉さん、これから出社するみたいな格好じゃないすか」
少女はうかがうような表情になり、距離を詰めてくる。
そうだ。私は紺のパンツスーツにジャケット、中は白いブラウス、アウターは黒のコートを着ており、カバンまで持ってきている。岸壁にドレスコードがあるとしたら微妙だろう。痛いところを突かれた。
「なんでですか?」
少女は追い打ちをかけながら、じゃりじゃり音を立てて私から三十センチくらいの距離までにじり寄ってきた。私は思わず一歩だけ後ずさる。答える義理はないものの、少女の発する謎の圧力に負けて、口のほうが勝手にしゃべりだそうとする。顔の良い人の言うことはなんとなく聞いてしまう癖が私にはあり、良くない。
「……できなかったら出社しようと思って」
「っふふ」
それを聞いた少女は打って変わって笑みを浮かべた。ギリギリ嘲笑ではない、原義のほうの失笑だった。
「ウケる。あ、言っちゃった。まあいいや。その考え方はえらいね」
ほめられたが、何も嬉しくないし少女がタメ口になっている。
「申し遅れましたけど、わたしは通りすがっただけの者です」
少女はそう言ったが、こんな場所に通りすがることがあるだろうか。ここには目的を持った人間しか来ないだろう。私は嘘だと思うが、掘り下げる必要はない。
「カナオと呼んでください」
少女は名乗ったようだ。プリンターのメーカーを思い出す発音だった。
「……どんな字?」
そこは気になったので聞いてみる。
「叶に生命のせい」
名字っぽくも名前っぽくもある。どちらか聞きたかったが、質問が連続するのはなんだかはばかられた。そして私の心がいつのまにか彼女と会話をする姿勢になっていることに気づいた。
「おねえさんは」
「羽下」
「下の名前は?」
「……めづる」
「漢字は? 名字のも教えて」
どんどん聞いてくる。最初からフルネームで名乗れば手間が少なかった。
「羽にアンダーの下で、はが。愛の一文字で、めづる。」
「へー」
めずらしい、と言われた。お前もじゃないかと言いたかったが、“お前”が言えなかったので黙る。
「自殺未遂のあとに出社する、いわゆるエクストリーム出社ですか。けっこう前に流行りましたね」
「自殺未遂はレジャーじゃないし」
それに未遂になるとは限らない、とはなんとなく言えなかった。
「でも、自殺するにあたっては公園で首を吊るのがいちばん遺族に迷惑をかけないらしいですよ」
「ふーん。知らなかった」
「大槻ケンヂがエッセイで引用してました」
「読んでそう。でも微妙に世代がずれてる」
「言われる、それ」
「やっぱり」
何の感情も込められていない、ひかえめな笑いを互いに行った。
「さてアイスブレイクも済んだところで、わたしがめづるさんに声をかけた理由をお話しましょうかね」
アイスブレイクのつもりだったのかということと、名前で呼ぶのかということが気になったが、まあ泳がせる。何のつもりで話しかけてきたのかは聞いておこう。
カナオは崖に対して私の横に立ち海を見渡したあと、改めて私に目を合わせた。何の演出だろうか。しれっとした表情でカナオは話を続ける。
「クリティカルな言い方をするとですね、お姉さんの死に際の時間をわたしにくださいよ」
「はあ?」
無敵かこいつ。止めさせる以外で自殺企図者に話しかけるのは異常者の域だろ。
「代わりにわたしと話す時間をあげます。理論上は等価値ですよ」
「代わりになってるのかそれ」
なんてあつかましさだ。こちとらこれから死ぬんだぞ。
「めづるさんの命はいま誰のものでもないわけだから、わたしが使わせてもらってもいいでしょ?」
「いや私のものだろ」
「ははは」
少女は薄ら笑いを浮かべている。直前のセリフを鑑みなければ、とてもかわいいとは思う。しかしなにがおかしいのかはわからない。
「じゃあまず、死ぬ理由から聞かせてください。一応」
「一応って何よ」
自分に都合の良い話の進め方をすんな、と付け加えた。しかしカナオは黙って私を見つめている。「そっちのターンだ」という態度。そして私には前述した悪癖があった。
普通に生きるのが一番良い。普通ができたら苦労はしない。普通ができれば医療も福祉もいらない。私はその普通をやることができていた。簡単な言い方をするとそうだ。
学生時代、および生徒時代の評価では、可と不可はまったく無くかなりの割合で優もあった。たしかに医療や福祉の世話になることの少ない人生だった。普通ができない人よりも良い評価を受け、良い結果を出してきた。良いとされる教育を受け、偏差値の高い学校に入学し、有名大学を出た。就職活動も苦労はしたが、それに見合う内定を何社からかもらった。成果が出ているのだから努力はしたはずだが、その実感がなかった。
友好や恋愛を求められることもあり、それに応えてたり応えないなり都度選択してきた。喜ばれることも悲しまれることもあり、すべて『人生いろいろ』の範疇だった。
親は優しかった。厳しい側面もあったのかもしれないが、私に向けられることはほぼなかった。おそらくあれが愛情だったのだろうと当て推量ができる人生の場面もあったし、私に掛けてくれた金額からもそれがうかがい知れた。
客観的に言えば順風満帆かもしれないが、自分では達成感も何もなかった。
私は人生が退屈になった。説教が得意な人にわざわざ話しに行けば、「二十五年しか生きていない立場で片腹痛い」みたいなことを言われるかもしれないが、自分では遅すぎたと感じている。学問や芸術、宗教が救ってくれるのかもしれないが、私が通ってきた教育機関や個人的な場面でも、避けているつもりなくそれらに心を向けることはなかった。今から自分を救うためにそれらを履修しようという気持ちにもならない。
そして私はこういう場所を探してやって来て、身を投げようとしている。
自らの、なんというか“個”に対するこだわりが少なかったように思う。個人的な感情や興味、悪い言い方をすれば我の強さ。それが顕著という理由で困る人は多いだろう。しかしそれが無さ過ぎて自死を結末に選ぶこともあるようだ。私は、自身のことなのに他人事なのだ。
「ある種、教育の敗北みたいな人ですね」
「そうだね」
返す言葉はそれしかなかった。さすがに悪いと思ったらしく、カナオは「いや、すみません」と言って気まずそうにしている。年相応さをはじめて感じる態度だった。
「わかりました。お話いただきありがとうございました」
丁寧さの中に変なものを感じる言い方。
「なによりですね」
「だからすみませんって」
いじわるを言ったつもりはないがカナオはそう受け取ったらしい。「じゃあ今度はわたしの話をさせてもらいますね」と、カナオは海に背を向ける。そんな長く話すロケーションじゃないな、と私は思った。
「自分語りをされたお返しにわたしの自分語りもさせてもらいましょう」
「カナオが言えっつったんだろ」
聞くけども、と言うとカナオはうれしそうな笑顔を見せた。
「わたし友達がいないんですよ」
「ふうん」
意外だとも意外じゃないとも思わなかった。
「なんでって、他人に自分の価値観を押しつけるクセがあったからです」
「よくないな」
典型的な良くなさだ。
「なんでそんなクセがあったかって、他人がわたしの思うように行動してほしかったんです」
「はっきり意識して押しつけてたんだ」
はい、と短く相づちをうって、カナオは話を続ける。
「なんでって、世界を変えたいからなんですよ」
自分に都合の良いように。恥ずかしげも後ろめたさも何気もなさそうにカナオは言い放った。
「……へえ」
私が返事をする前に波の音を聞くだけの時間があった。なにか、持て余すような気持ちになってしまい腕時計をちらと見る。
「ちょっと時計みないでくださいよ」
ばれた。
「始業時間に間に合うかと思って」
「めづるさんはこれから死ぬんでしょうが。前提を覆さないでください」
「その前提は私が作ったものだから」
空が明るんでくる。二つの影が少し濃くなる。
「……それは現在形なんだな」
「そう」
話を戻してあげると、カノは続けてしゃべりはじめる。
「ちょっと話がそれますがいいですか」
「はい」
構わんよな? という視線をよこされたので、もちろんという感じで私は答えた。
「人類の皆にもっと個を出してほしいんですよ。コンビニの店員さんとか、よっぽどの店じゃない限り大体丁寧じゃないですか。しゃべり方とか」
「いいことだろ」
「食べ物とか買ってもぜんぜん異物はいってないし」
「いいことだろって」
「本屋で本とか買ったら、カバーつけますかって聞いてくれて、その場でつけてくれるじゃないですか。そこまでしなくていいよって」
「それはちょっとわかるかもな」
髪をかき上げて、その手を振り下ろしたりして、いら立ったような仕草を見せながらカナオはしゃべり続ける。私の感想はどうでもいいらしい。
「もっと雑にしてくれていいんですよ。仕事とか人間関係とか、めづるさんがさっき言ったような、個をないがしろにしないでほしい。もっと我を出してほしい」
「マッドマックスみたいな世の中になるんじゃないか」
「なればいいんですよ。だから言ってるじゃないですか世界を変えたいって」
「メガテンのカオスルートみたいな奴だな」
「やったことあるんですか?」
「友達がやってただけ」
「エアプじゃないですか。でもいいんですよそれで」
自分勝手にしてほしい、みんな。カナオの声はしゃべるにつれ細くなっていく。カナオはうつむいて、つまさきの辺りに転がっていた丸い石を見つけると、それを蹴飛ばした。なんだこいつ、詩か?
「いわゆるテラフォーミングですね」
「聞いたことない誤用だな」
「以上で自分語りを終わります」
「はい」
おどけたようなセリフと裏腹に声は低く真面目な印象を受けた。まるで面接のようだった。
「奥まった自己紹介も済んだところで、本題に入りますが」
「ん?」
カナオは改めて私に向き直った。カナオが現れてから、彼女の動作ばかりを目で追っていた私と当然目線が合う。
「清水の舞台から飛び降りた人の8割は生き残っているっていうトリビア知ってますか」
「……知ってるけど」
「ここもいわばそうなんですよ」
「は?」
「わたしは通りすがりだって言いましたけど、あれは嘘です」
「……」
何が言いたいのかを推測すると、カナオは本当に話をしに来たわけではなかったということだろうか。本当に自殺するにはこの場所は良くないと。ましてや止めに来たのでなく。出直せと。
すると今日はこのまま出社することになるのか、などと考えていると、答え合わせのようにカナオが続けて言った。
「ずっと話しかけたかったんですよ。あなた何度もここで飛び降りてるでしょう」
「ん?」
「名前聞いたでしょ。あれはネットで見た情報と照合するためです」
「いや待って」
「清水の舞台のたとえは余計でしたけど、大島てるでめづるさんのことを知ったんですよ」
「待てっつってんだろ」
すみません、とカノは頭を下げた。気まずそうにしているが年相応さを感じる態度は今はどうでもいい。
「二個あるんだけど、何度もって何」
「順を追ってお話しましょう」
「最初からそうしろ」
「はい」
率直に言うと混乱させるかと思って、という聞き捨てならない前置きをして、カナオは話しはじめた。
わたし、めづるさんを見たのはじめてじゃないんですよ。わたしは早朝に散歩するのが日課なんですけど、昨日ここの近く通ったときに、あれがたぶんめづるさんだったと思うんですけど、変なところに人いるなと思って。写真でも撮りたいのかなと思ってたら、ぱって飛び降りたんです。
ああ、そういう人もいるかって思ったんですけど。死にたい人が死ぬのはいいんですよ、わたしの理屈では。でも本当は死にたくなかったのにそういう選択を取る人のほうが多いじゃないですか。多いらしいって聞きますよ。だからちゃんと救急車を呼んだんですよ。救急です、場所はここです、人が頭から飛び降りましたって伝えて。どんな見た目でしたかって聞かれたから、黒いスーツ着た女の人でしたって言ったら、「あー」って。なんかへんな相づちだなって思いましたけど、まあ救急隊員の人たち来てくれたんですね。
でも見つからなかったんですよ、あなたの身体が。わたしもあなたが飛び降りたあとの崖の下覗いたり、安全な道を通って下の海さがしたり。救急隊員の人も、海の中落ちたかも知れないからそういう船だして探してくれたのに。
そのうちみんな戻ってきて、わたしが嘘ついたって疑われるかなって思ったんですけど、違って。「最近この場所の飛び降り自殺の通報が多い」って言うんですよ。わたしで三度目だって。それでその度に身体が見つからなくてって。
怖い話じゃんって思うんですけど、救急隊員の人たちはそういうの慣れてるっぽくて。一応事務的なことはやっておくから、まあ今日は解散みたいな感じになったんです。
怪談とかである、自殺者が死の直前の行動を繰り返すやつかな、本当にあるんだなって。学校行ってる間もずっと気になってましたよ。授業中なのに大島てるとか見たりして。そしたらこの場所にちゃんとマークついてたんですよ。たしかに飛び降りがあったと。それで地元のニュースとかも見たら、氏名や勤務場所とか、搬送された病院とかもわかって。ほら見てください、この病院。
で、ここからなんですけど、めづるさんまだ死んでないっぽいんですよ。発見が早くて、かつ即死は免れていて、お医者さんが手を尽くしたけど、意識不明のまま数日経ってると。わたしスピリチュアルも医学もさっぱりなんですけど、それってめづるさんがまだここにいるからじゃないかなって。
それで今日ここに来たら、やっぱりあなたがいたんです。
時計を見てみる。長針も秒針もさっきとまったく同じだった。今度は時計を見たことに言及せず、カナオは続けて言いたいことを言うようだった。
「わたしはね、人が歯車としてだけ動いてるのを見るのが嫌なんですよ。個を失ってシステムに組み込まれるのが最悪なんです」
苦々しい表情を隠さずに私を見つめる。カナオはずっと私の話をしていたのかもしれない。
「めづるさんは今まさにそれになってるんですよ。自死を繰り返すシステムに組み込まれている」
カナオが右手の人差し指を私に突きつけてくる。頭から垂れてきた液体が目に入って、私の視界が赤く滲む。
「死なない方が良いっていう通底した考え方を無視すれば、どんな理由で死を選んでも良いんです。その人が本気でそう思うのなら」
お願いなんですけど、と前置きしてカナオは私にまた頭を下げた。
「生きてくださいとは言いませんよ。ただもう飛び降りるのをやめてほしいんです」
「……価値観の押しつけだ」
そうですね、とカナオは言ったんじゃないかと思った。滲んだ視界の中、カナオは頭を上げるのをかすかに見た。
何度も言うが、私には顔のいい人の言うことは聞いてしまう悪癖がある。
「服が違いますね」
めづるさんは白いセーターに青いデニムを着ていた。カバンは持っていなかった。
「まだ仕事に復帰してないからね」
毎日欠かさず早朝散歩を続けていたわたしは、例の崖でめづるさんと一ヶ月ぶりの再会あるいは初対面の出会いを果たしたのであった。
「頭を上げたらいなかったからびっくりしましたよ」
「ああ、カナオの方はそういう感じだったんだね」
気づいたら病院にいて様々な管が自分に繋がれていて緊張した、とのことだった。
「何日も意識不明だったら、後遺症とか残るんですか」
言ってから「本来は聞きづらいことのはずだったな」という反省がよぎった。
「どうだろ、あんまり言われなかったかも」
めづるさんは頭をかきながら、海側に向かって一歩すすんだ。彼女が生き延びたのは医療従事者の“丁寧”な仕事のおかげだと思うと、一ヶ月前わたしが語ったことを顧みずにいられない。
「……自殺は改めてするんすか」
「いや、もうしない」
率直に聞いてしまったが、逡巡するような間もなく返事が来た。
「じゃあめづるさんはなんでここに」
「カナオに会いに来た」
わたしがぼそりと「そんなわざわざ」と言ったあと、波の音を聞く時間があった。
「またちょっと自分の話いい?」
めづるさんが首を少しわたしのほうに振り向いて聞いてくる。
「どうぞ」
別に構わんよなという感じでめづるさんがおっしゃったので、もちろんですという雰囲気でわたしは先を促した。
「私はね、顔がいい人の言うことは大体聞く癖があるんだ」
「……なんすか急に」
めづるさんは海を見ながら「この場合カナオのことなんだけど」と付け足したので、わたしは絞り出すように返事をした。「照れがばれてるだろうな」という気持ちと「本当に何を言い出すんだ」という感情とともに。
「からっぽな私に、押しつけられたカナオの価値観が人格としてはめ込まれた形になるんだね」
「……」
理解できそうでできない、まわりくどい表現をしてくる。
朝日がそろそろ差してくる。ようするにね、と言ってめづるさんは話を続ける。
「カナオは“人類にもっと個を出してほしい”と言ったね」
「はい」
「それ、やろうか。世界を変えよう」
「は?」
めづるさんは振り向いて意味のわからないことを言う。
「カナオの仲間になりたい、と思ったんだ」
彼女の頭が朝日をちょうど遮って後光のようになっており、何の隠喩かわからなかった。
「……草薙素子は『世の中に不満があるなら自分を変えろ』って言ってましたけど」
「カナオの方からそれ引用するんだ」
めづるさんは右手の人差し指を自分の口元に当てて、考えるような素振りを見せる。
「人類全員が自分を変えてくれれば、世界も変わったことになるんじゃない」
「他者に頼るなあ」
「少なくとも、私は変わったからね」
「価値観を押しつけただけで?」
「そう」
めづるさんは笑っている。変わったって言うのかな、それ。
「まあ理論上可能なわけだから、その方法を考えるところから始めよう」
「でもほかに顔の良い人が現れたら、めづるさんがそっちのほうになびくこともありうるんじゃないですか」
まためづるさんが一人で笑った。二人で朝焼けの光を浴びている。
「それは私の宿題にさせて」
「いま答え出せないのかよ」
「そうだよ。早いよ、十代半ばや二十五で人生決めようなんて」
「微妙に答えになってなくない?」
「いいじゃん、カナオより魅力的な子なんていないでしょ」
わたしは額を手で押さえた。
「めづるさんが変わったって言うの、あたま打ったからじゃないんですか?」
めづるさんはもうずっと笑っており、それが返事だったらしい。
「……まあ、ありがとうございます、かな」
仲間になってくれて。とりあえずそれは伝えた。
「こちらこそ」
助けてくれて。とめづるさんは言って、互いにぺこりと頭を下げ合った。
「……めづるさんがわたしの仲間になるにあたって、もう一個あるんですけど」
仲間になるってどういうことだろうと思いながら、それをのみ込んだていで、念を押すように色々なことを言ってしまう。
「いくらでもどうぞ」
めづるさんはなんでも聞いてくれる。
「めづるさんが生きてたのはお医者さんの“丁寧”な仕事のおかげじゃないですか」
「完全論破じゃん」
めづるさんがめちゃくちゃに笑い出した。まだ笑うのかよ。
「やっぱやめよう世界変えるの。だめだめ」
「また前提覆すじゃん」
感情の込められた、かすれた笑いを互いに行った。自分が変わったら世界変わったのと同じようなもんだからそっちにしよう、とめづるさんが言うので、草薙素子も顔が良いですもんね、とわたしは返した。そしてまた笑った。
「じゃあ、自分なり世界なりを変えようとがんばっていこうか」
なんだそれとは思ったが、着地点としてはそこしかないとも思った。
「本気で変えようと思ってる人はいますもんね」
「そうそう。私たちもやっていいはず」
めづるさんが話を締めくくるように右手を差し出してきた。それにわたしの右手を重ねるとやさしく握られた。
丁寧な世界の中で、いまわたしたちだけは個のままで話し合った。そして私に初めての仲間ができた。
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