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専門家向け 親の思想信条に悩む子世代(“宗教二世”等)への支援(4) 育った集団の影響とラポール形成

(3)において具体的な二世(等)の多様性を説明しました。二世問題に関わるのは想像以上に難しいと感じた方もいるかもしれません。

新たな捉え方をキャッチアップする

ところで専門家の皆さんは経験を重ねるなかで新たなイシュー、支援対象が出現することもご存じかと思います。例えば、かつて発達障害などという考え方は人口に膾炙していませんでした。しかし、それが専門的知見として業界内で共有されるようになり、専門的知識をバージョンアップしていったのではないかと思います。昨今では性的マイノリティのイシューがそれに当たるかもしれません。では、これらは注目を浴びるようになって新たに存在し始めたのでしょうか?違いますね。元々あったが概念として認識されなかったものを見出したというのが現実に近いでしょう。これとは一線を画して、社会状況の変化によって新たに見えるものもあります。国際化に伴って異文化への対応が求められるようになりました。しかし、これとて過去に同一イシューが存在しなかったわけではありません。マイノリティか被差別対象として認識されにくかっただけかもしれません。AI技術はかなり明確に出現したように思えますが、少なくともロボット技術が出現した、かなり以前から始まっていた現象の延長にあるとも言えます。このように私たち支援に携わる専門家が関わる領域では、常に新たな概念や捉え方が出てくることを想定し、柔軟に対応することが求められます。“宗教二世”(等)の考え方も、この一つに過ぎません。

ただし、支援の専門家は支援対象となる当事者の感じ方にも感覚を磨く必要があります。被害者心理全般に普遍的に言えることですが、当事者は「どうせわかってもらえない」という気持ちを抱いているのが普通です。そして支援者はときに、そのような負の感情を向けられることもあります。

自助的関わりについて

ここで自助的関わりに言及しておきましょう。被害当事者の集まりは、この苦しみは自分だけのものではなかったと孤独感や自尊感情の低下に歯止めをかける効力があります。(3)で述べた“宗教二世”以前の当事者たちも、匿名性の確保出来るインターネットの世界で自助的な関わりを続けてきました。ときにオフ会でリアルにコミュニケーションを取ることもあります。自分だけが特別に孤独で理解されないと感じてきた当事者ほど、自助的関わりの効果は大きくなります。第三者の支援や関わりでは得られない、一気に気持ちが解け、エンパワメントされるような経験が得られます。

同時に、どのような自助的関わりにも限界があります。それは人の集まりなのですから当然ではありますが、期待値が大きいほど、それを裏切られるショックも大きいものです。自然災害という人を選ばない集団でさえ、被災当初のハネムーン期から時間を経過すると、そのコミュニティが変化し、多様な負の感情を搔き立てることがあるのが知られています。いわんや生育過程に様々なものを抱え、情緒的安定や対人関係上の課題を抱える人たち同志のコミュニティにおいて、それがさらに脆弱であることは想像に難くないでしょう。

“二世”にとって自助的関わりは回復の第一歩として有効なことが多いと思います。同時に、その限界を知ることも当事者が自分を守るためには大切なことと言えます。

専門家の立ち位置


さて、このように当事者同士ではない、共通項によって安心感を与える立場ではない専門家はどのような立ち位置を取ればよいでしょうか。当然のことながら、私たちは支援対象となる当事者への寄り添い方を学んでいます。『あなたのことはわからないし、あなたに代わることは出来ないけれど、あなたと一緒に課題解決に臨むことは出来ますか?』という立ち位置にいるのが専門家です。そのため、最初のラポール形成は支援対象者の不信感が強ければ強いほど、エネルギーを要求されます。幼い頃からの虐待経験をもつ当事者を支援して来ている方なら馴染みのあることかと思います。もちろん、当事者からの過大な理想化に当惑することもあります。不信や怒りと過大な理想化は表裏の関係に過ぎません。

一般的な虐待と”宗教二世“の経験の相違


宗教二世(等)の場合、ここに組織性の要素が加わります。当事者の親世代がどれぐらい組織の信念にコミットしたかによって影響の受け方は異なりますが、信じているものが正しいから子世代にそれを当てはめるというメンタリティをもつ親世代が多いはずです。親の信念が宗教や道徳的価値観に根付く場合、それは子世代に世界観や罪悪感とセットになって伝達されます。子世代がその影響を受け始めるのが幼ければ幼いほど、根源的な価値となって根付くのです。一般的な児童虐待が「自分は親に愛されない価値のない存在だ」という信念を植え付けるものだとしたら、宗教的、道徳的価値観に基づく虐待は「自分は(要求に沿わなければ)親のみならず、超越者、世界、歴史にとって価値のない存在だ」という信念を植え付けます。一般的虐待の「親に愛されない」感覚はやがて「他者に愛されない」に変わるので対人関係上の問題に育っていきますが、宗教的、道徳的価値観は目に見えないものですから、子供の発達段階にもよりますが、対人関係のみならず、より広範で強い拘束力をもつものになるかもしれません。健康的な宗教的信念であれば罰や恐怖を強調するようなことはないのですが、結果的に二世の苦しみを生み出す、親世代が伝達する宗教的信念はそうではありません。

しかも、そのような極端な宗教的信念は元々選民意識を植え付けるなど周囲から意識的に隔離する傾向が強く、いわゆる「よそはよそ、うちはうち」を極度に強調することになります。通常は、子供たちは子供の世界でよその子を参照しながら自らをみつめ、調整していく力をもつのですが、このような信念の下に置かれると、それはしてはいけないことにされます。よその子を参照していいのは、同じ信念の集団内の子供だけです。むしろ、自分が出来ていないことを集団内のよその子を指して省み、修正するよう求められるのです。これは兄弟姉妹間でも起こります。子供が複数いれば、それだけ個性も生まれるのですが、より従順な兄弟姉妹が集団や親にとって価値あるものとなり、そこに従えない子は一段低く扱われることになります。これは兄弟姉妹間の格差を生み、その後の葛藤にも影響してきます。

狭められた視野を共に超える

このような環境で育って来た二世たちは、通常の児童虐待以上に社会的にも思考的にも視野を狭められていることがあります。成長し、家族と宗教的、道徳的価値観に違和感を抱くまでは出来ても、容易に外の世界に踏み出しにくくなるのです。集団以外の世界は敵外視したり、価値のないものとする価値観を植え付けられてきたからです。もちろんエホバの証人や統一教会など、非コミューン型の集団は現実的には信者以外の人たちと同じ生活圏で育ちます。だから信者以外の人たちを知ってはいるのですが、それは最初から「よその人」として区別され、忌憚なく自然にコミュニケーションを取れる存在ではありません。関わり方によっては宗教的、道徳的信念において、とても大きな罪悪感を負うこともあり、安心して交われる相手ではないのです。このような構図があるからこそ、彼らが集団外の人と集団の信念抜きで関わることは難しく、信頼も置きにくいのです。これこそが、彼らが自助に引き寄せられる背景とも言えますし、離脱しても支援者を含む集団外の人々を受け入れにくい土壌でもあります。

この頑なに育てられた信念は、一般の被害者心理に輪をかけて「どうせわかってもえらない」感を増幅させます。また、彼らの世界観を狭め「同じ背景をもつ人としかわかりあえない」感覚を育てます。彼らが支援者に組織に対する知識や理解を求めるのは、そのためでもあります。集団を離脱しても、集団外の人々は彼らにとって基本的にエイリアンです。エイリアンに易々と心を許すはずもありませんし、少しでも理解されないと感知したら強く反応しがちです。支援者はこの出発点の特徴を心に留めて、関わりを始める必要があります。

支援者は組織に詳しくないと務まらないか?

では、支援者は組織に関する情報を逐一把握していなければならないのでしょうか?もちろん、知っているに越したことはないでしょうが、それは現実的に不可能です。それに、二世同士においても組織に対する知識や経験が異なることはよくあります。そうした現実がありつつ、支援者には知らないことを非難する態度が見られるとしたら、それは理想化とそこから反転する落胆や怒りなのかもしれません。

そのようなラポール形成の難しさは起こり得ますが、関わりを続けるなかで彼らに「尋ねる」ことには大きな意義があると考えます。それは「外の社会はあなたをどう理解できるか」のヒントに関わることだからです。この支援者はなぜ私のことを理解しないのか、それでも支援者なのかと訝られる場面は、現実的には彼らが何を知る機会を奪われて育ったかを反映します。一般社会が彼らに対して解せないことを、支援者は一般社会代表として訊く立場になるとも言えるかもしれません。それは彼らにとってやっかいで面倒なことかもしれませんが、代表として尋ねることにより、それは彼らが社会のなかでどのように理解され、どのように違っているかを理解するプロセスともなり得ます。彼らが社会を知る権利を奪われて育ち、今、一般社会に出て活躍しようとしているのを支援するなら、面倒でもそのプロセスを経ることは必要です。その困難なプロセスを伴走出来るよう関係性を作り上げるのが支援の難しさでもあり、第一段階の着地点と言えるかもしれません。

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