私のおばあちゃんの戦争の記憶(前編)
2015年に祖母が話してくれた戦争のことをお伝えします。なお、できるだけ方言は残しています。
祖母は農家の子どもだったものの、比較的恵まれていたからか、あまり農作業などはせず裁縫や洋裁を習ったりしながら娘時代を過ごしていました。
戦争末期に、挺身隊として群馬県の中島飛行機太田製作所で働くことになります。挺身隊とは勤労奉仕団体のひとつで、日本の労働力が逼迫するなかで、工場などで勤労労働に従事したようです。
◾️軍が政治を取れば、国はおしまい。
ー小学校を卒業して、お裁縫を習い始めたんですね。
春になるとね、農家の娘はお裁縫に通ったんですよ。まだ寒い時間に起きて自分でお弁当を作って、朝7時頃に家を出ていくの。1里以上、女の子の足で40分くらいの距離を毎日歩いて通った。
ーお友達と一緒に通ったのですか?楽しかったですか?
そうですね。似たものが一緒になって、おしゃべりしながら笑いながらツッコクリながら。いろいろ色気話なんかして(笑)。女の子だから恋愛のことを打ち明ける。「あんたいるんでしょ?」とかさ。「いない?」「嘘ばっかいってら?」とかね。田んぼなんか来ると誰も見てないから、みんなしてね、ワハハハ笑いながら。
そうかと思えば、雪でも降れば下駄がひっくり返って横の鼻輪が切れちゃう。でもお裁縫道具を持ってるから、道端で広げて直してそれを履いてまた行きましたけどね。いい思い出ですよ、そういうのは。
ーそんな平和な日々だったのに戦争が始まったんですね。12月8日のことは覚えていますか?
ちょうど朝、私が洋裁を習いに行くのでいろいろ準備していたときに、ラジオだったかなんだったかね、真珠湾攻撃が始まったと流れましたね。それでその日はよく覚えている。
教室に着いたらぼっちらぼっちら他にも生徒が来て、「戦争が始まって嫌だねー」、「どうしたんだろうねー」って女同士で話しました。
うちでは父が、「軍が政治を取ればな、国はおしまいなんだ」と言いましたよ。
◾️身を挺して国家に勤めろ。娘盛りに挺身隊へ。
―でも戦争反対とは言えなかった? 戦争が始まったときには、後々日本が大変なことになるとは思わなかったのですか?
うっかり口開きしたら、「こっちへ来い」って引っ張られちゃう。それこそ引きずられて連れて行っちゃったからね。みんなで右倣えしました。立派な人も戦争に反対すれば殺されたんだから。
―頭のなかでは戦争に反対を?
頭のなかでは、戦争は嫌だと思うだんべね。頭のなかで思ったって、それでは引っ張られないから(笑)。真珠湾攻撃なんて眠ったものを起こしたんだから、日本はひどいよ。
―何歳のときに挺身隊に入ったのですか?
娘盛りです。19、20歳くらい。家でぶらぶら遊んでいた人が集められたんですよ。身を挺して国家に勤めろ、というようなわけだったと思う。私の家があった地域だけでも、挺身隊に採られたのがたくさんいた。
◾️「お母さん」「お父さん」と泣きながら空襲から逃げた。
ー何か特別な訓練などは受けたのですか?
2週間くらい訓練して、機械ややすりで削る方法などを勉強しました。私が行った太田市には、学校くらい大きい工場が50つもあったんですよ。だからアメリカ軍にも狙われて、空襲がすごかった。そのときは命からがら。逃げるというより身を隠そうというくらいで。逃げるとこまでいかなかったわね。大変でした、ほんとに。よくあんときは艦載機にやられなかったと思ったくらい。すぐそこまで来た。ちょうど工場の影があってそこに隠れたから、命があった。
B29が飛んで来るとサイレンがううーって唸る。そのときはもう来てる。あそこにいるって言いながら山に飛んでいく。逃げていく。みんな泣いてるのよ。「お母さん」とか「お父さん」とか。
あんなこと夢の夢という感じ。いま考えるとなんだか怖くて嫌ですね。あの艦載機は憎ったらしい。低空ですからね。終戦の年には艦載機がものすごく来て、だいぶその時は人が亡くなりましたね。
©️Yurie Nagashima
後半に続きます。
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