YouTube大学、「安いニッポン」を見て思うこと・3
さて、次なる計画に向け、帰国したまでは良かったものの、私の選択は、初っ端から間違っていた。
常夏の国シンガポール。
緑豊かで、開放的で、すべてが明け透けな場所から、大都市・東京に戻るのには、いささか抵抗があり、選んだのは、自分が幼少期に過ごした街、福岡だった。
「福岡なら、街もそこそこ発達していて、コンパクトだし、自然も近く、シンガポール的な暮らしを送れるかも。」
そこで、ついて早々求人を探し、面接に漕ぎ着けた。
元々、会社員だったので、当然の流れだが、前回、日本を出た時から、少なくとも、6年が経過していたということを、私は、計算に入れてなかった。
面接会場で、職歴を話すよりも前に、こう聞かれた。
「ご結婚されてますか?」
「いいえ、していません。」(そうか、この年で、結婚していないのは、地方都市では珍しいんだな。)
面接官は、一瞬の沈黙のあと、今度はこう聞いた。
「お子さんは?」
「いえ、いません。」
そして次の間の後、今の時代に、もうこんな質問をする人は、きっとないと思うけど、彼は、こうとどめを刺した。
「結婚をされていない。そしてお子さんもいらっしゃらない・・・」
気まずい空気が流れた。
そう、私は、完全に罪悪人だった。
日本では、決して若くない部類の年齢層。
そんな女性が、独身で、子供もいないことは、少なくとも彼の法則の中では、理解し難い不審者(エイリアン)であった。
ショックはさらに続いた。
なぜか、次の面接でも同じことを聞かれ、聞かれなかった次のところでも、またその次でも、仕事は一向に決まらなかった。
段々、気持ちは塞いでいった。
正直、若い時は、結構自分の就きたいと思う仕事に、就いてきた。
けれど、日本を離れ、自分なりには見識を広げて帰って来たつもりでも、場所が違えば、自分は単にとうがたった、扱いにくい人でしかないのは、明らかだった。
私の、過去6年間、満たされたエネルギーは、徐々に萎んでいき、遂には伝手を辿り、地元の地方自治団体の臨時ポストに、なんとかありつく有様だった。
けれど、そんな不幸中の幸いだったにも関わらず、私は、全くハッピーではなかった。
街には、人がたくさんいるのに、みんなもの静かで、お行儀が良くて、なんだか皆、心を隠して生きているように感じられた。
同じ課に配属された同僚と打ち解けようと、冗談混じりに話していると、隣の島の管理職の男性に、”ここは、外国ではないんだぞ!”と威嚇され、重苦しい空気の中、オフィスは益々しんとした。
たまらず、ある週末、車なしでは、絶対に行けないと言われたサーフポイントまで、2時間半掛けて、自転車でたどり着けば、そこにいたローカル達には、珍しそうに見つめられ、ショップで板を借りて、海に入っても、上級者の多いそのビーチで、私に波を分けてくれる人は、いなかった。
別に、誰かが意地悪ということではない。けれど、それがその場所での流儀であり、皆、黙々と自分の鍛錬を積み、初級者は、上級者の邪魔にならないように、技を盗んでひたすら頑張る、というのが、その場のあり方だった。それが証拠に、少数ではあったけれど、「次にビーチに来たくなった時は、連絡して」と、そっと連絡先を渡してくれる人もいた。
思うに私は、ずっと恵まれていたのだ。
若い時は若いだけで、ニコニコと笑顔でいれば、皆から可愛がられ、シンガポールでは、日本人女性と言うだけでチヤホヤされ、それ以前に、東南アジアの男性は、どこに行っても、心優しかった。
海で、流されていることに気づかずに、私を助けに来てくれたのも、ボードで怪我をして、病院まで連れて行ってくれたのも、バイクに正面から衝突されて転んだ私を、秒で助けてくれたのも、それは、いつもローカルの男の子達だった。
彼らは、何かが欲しくてそうするのではない、困った人を助けるのは、彼らの中では当然のことで、手を貸さずに、まずは成り行きを見守る、というのは日本式のやり方だった。(その代わり、強い絆は一生外れないのが日本の美徳)
一緒にサーフィンしていた仲間とは、野宿して同じ釜の飯を食べ、動作の遅い私に波を分けてくれて、うまく乗れた日には、皆で、エールを飛ばしてくれた。
あの時、あの場所で、幸せを手にしていたにも拘らず、どうして自分はそれで、満足することが出来なかったんだろう。
あそこで満足していれば、こんなに楽しいならば、きっともっと楽しいことがあるだろうと、先を急ごうとした自分の浅はかさに、毎晩、枕を濡らすも、時はすでに遅し。
その時の私には、前に向かって歩き出す選択しか、残っていなかった。
そんな、惨憺たる状況の中、ただ1人、助け舟を出してくれた人がいた。木村さん、と名乗る、私より一回り年下の女性だった。
(続く)