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日本最初の「文章」か? 音無神社、かっこよい!!

日本最初の文字は、「田」だとわかっているのであるが、ついに「文章」(2個以上の文字で意味をなすということだろう)の最古のものが発見された。

えー、意外に、高知だったのだ!

「高知県立埋蔵文化財センターが2018年に南国市の若宮ノ東遺跡(わかみやのひがしいせき)で発掘した「刻書土器」です。2世紀後半から3世紀中ごろに作られたとされています。

刻まれているのは「何」という文字と「不」という文字。文字には続きがあり、文章になっていたとみられます。

日本で文章が確認されているのは5世紀以降であるため刻書土器が、歴史を塗り替える可能性があります。」


うーむ、なんかでっかい建物があるから、大和王権が初期に派遣した人々で、読み書きができたのではないかな?

遺跡からは、弥生時代の竪穴建物群をはじめとする集落跡や古代の掘立柱建物などの遺構・遺物が数多く確認され、弥生時代から中近世までの複合遺跡であると理解されます。なかでも平成30年度の調査で発見された大型掘立柱建物跡は県内最大級の規模を誇り、土佐の古代社会を見ていくうえでも特筆する内容を備えています。県道に関する調査の周辺では、南国市教育委員会が市の都市区画整理事業のための発掘調査を実施しており、県と市を合わせた複数年にわたる広域な発掘調査により、土地に眠る古代の記憶が現代に甦ろうとしています。」

いつもの明神大社チェックだ。
あいにくとない。

ではしょうがないので、高知県で一番古いといわれてそうな神社を探すのだ。
神社はだいたい大和王権関係者を祭ったものなので、大和王権系列かどうかわかる。

「現在の社名「土佐神社」は明治の改称によるもので、それ以前の史料では次のように表記される[2]。

土左大神 - 『日本書紀』[原 1][原 2]、『土佐国風土記』逸文[原 3]
土左高賀茂大社 - 『土佐国風土記』逸文[原 4]
都佐坐神社 - 『延喜式』神名帳[原 5]
都佐坐神 - 『日本三代実録』[原 6]
高賀茂神 - 『長寛勘文』」

(釈紀)第21代雄略天皇4年とある。まあ、すごく古いわけではないが、古墳時代ってところかな。

「祭神は次の2柱[3]。

味鋤高彦根神(あじすきたかひこねのかみ)
神名を『古事記』では「阿遅鉏高日子根神」、『日本書紀』では「味耜高彦根神」とする。特に『古事記』では大国主命と多紀理毘賣命の間の子とし、別称を「迦毛大御神(かものおおみかみ)」とする[2]。都佐国造の祖神とされる[4]。
一言主神(ひとことぬしのかみ)
神名を『古事記』では「葛城之一言主大神」、『日本書紀』では「一事主神」とする。両書でいずれも雄略天皇段に登場する神で、特に『古事記』では悪事・善事も一言で言い放つ託宣の神とするが、系譜は不詳。
この一言主神は大和葛城地方(現・奈良県御所市周辺)において巫覡を事とした集団に関わる神といわれ、事代主命と同神とする説もある[1]。なお『先代旧事本紀』では、素戔烏尊の子とする[2]。」

もう1つは、これで、ランク2くらいだ。剣がある。立派だ。

(伝)第21代雄略天皇4年

「横浪(よこなみ)半島によって形成される浦ノ内(うらのうち)湾の最奥部付近に、北西向きで鎮座している。

北方対岸の横浪港に遥拝所があり、市営巡航船の貸切運行を利用することで、そこから湾内の海を縦断して参拝することも可能となっている[3]。

社伝によれば、葛城山に居た一言主命と雄略天皇との間に争いがあり、一言主命は船出して逃れた[4]。雄略天皇4年の大晦日にこの地に流れ着き、神社を造営したのが始まりであるとされる。実際は、鎌倉時代の建長3年(1251年)に創建されたようである。

一言主命は土佐国一宮の土佐神社と同じ祭神であるが、土佐神社は当神社の別宮であったとされている。」

こっちのほうが、元宮らしい。
海に向かっていて、かっこいいーーー!!! ええねえ!!!


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KyoKannazuki21
AI,脳科学、生物学、心理学など幅広く研究しております。 貴重なサポートは、文献の購入などにあてさせていただきます。 これからも、科学的事実を皆様に役立つようにシェアしていきたいと思います。 ありがとうございます!!