富雄丸山古墳 木棺が出た。
おおー、またなんかすごいのが出た!!
「割竹形(わりたけがた)木棺から、木棺内部を仕切る「仕切り板」や、末端部の「小口(こぐち)板」が埋葬時のまま立った状態で見つかり、市教育委員会が6日、発表した。」
4世紀だそうだ。
任那ができた時代なのだ。
円墳なので、古いタイプなのだ。しかも、でっかいので、天皇か皇太子とか、王子か、あとは有力な皇女かだろうが、わからん。
「七支刀の時代について『日本書紀』は百済との関係を百済側が積極的に交渉を求めて来たのだと記述している。つまり、日本は百済に対してさほど関心がなかったということである[6]。当時の百済は高句麗と激闘を繰り返し、高句麗王斯由を戦死に追い込むほど国力が盛んであり、372年には東晋から鎮東将軍・領楽浪太守の地位を与えられ、高句麗領の「楽浪」を支配する名目的な地位を獲得した。当時の百済は南方の任那にさして関心はなく、倭との関係を求めたのは、この任那に勢力を伸ばして来ている倭に関心をもったからであろう[6]。関心はやがて積極的に倭軍を利用しようとする動きに変わるが、その状況を物語るのが好太王碑である。好太王の主要な敵は日本(倭)であり、しかも繰り返し倭軍を攻撃している。倭がはるか平壌近くまで出兵する理由は百済の介在によって明らかとなり、百済の求めに応じて倭は派兵し、高句麗はそのため倭軍と戦わざるを得なかった。百済の救援要請は当然のことながら倭王の地位を高めることになり、それが倭の五王の「都督百済諸軍事」(百済を軍事的に支配する権限)の背景となる。」
「倭の五王(わのごおう)は、中国南朝の宋帝国(劉宋)の正史『宋書』に登場する倭国の5代の王、讃・珍・済・興・武をいう[注 1]。5世紀初頭から末葉まで、およそ1世紀近くに渡り、晋、宋、斉などの南朝に遣使入貢し(遣宋使)、また梁からも官職を授与された。倭の五王が記紀=『古事記』(712年)と『日本書紀』(720年)における歴代天皇の誰に該当するかについては諸説ある(後述)。」
うーんうーん、この古墳って、天皇のもの? それとも王子くらいのもの???
4世紀後半って、神功皇后と仲哀天皇(第14代)なのだ。仲哀天皇は早く死んでしまうが。息子は応神天皇だ。
応神天皇の陵はこれだ。でっかい古墳で有名だ。
仲哀天皇のほうはこちら。
でも別の被葬者の説がある。
(宮内庁治定)第14代仲哀天皇
(一説)第21代雄略天皇
(一説)倭王武
これはわからんとですーwww
欠史八代の誰かかなと思ったが、もうちょっと後ですな。