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小泉Jrの暗愚さは、平安時代の皇子にもいた。永平親王の話。
アホのメディアが、小石川を押していますが、バカすぎると思います。その1人、小泉Jrについては、「もしかして、境界知能?」といいたいほどです。
もちろん、東大卒ってことはないです。(OBの人には申し訳ないが、Fランク大学です。アメリカ留学していますが、アメリカの大学は多額の寄付をすると入れてくれたりします。いや、まじに。)
さて、実は平安時代にも、「血筋はサラブレッド、見た目はイケメン、でもバカで使えない」人がいましたので、1つ、ご紹介します。
その名は、永平親王といいます。
(例によって、「」は直前のリンク先か、Wikipediaなどからの引用です。)
父は、村上天皇です。平安時代には、何人か名君の天皇が出ていますが、村上天皇は、「平安時代きっての名君」といっていい人で、藤原道長のちょっと前の時代ですが、平安時代文化がピークになる寸前の人です。性格もよし、ルックスもよし、業績もよいという、ぴかぴかの名君です。国民にも慕われていました。
その村上天皇の第8子です。
母は、女御 藤原芳子といって、かわいいかんじの美人で当時、有名でした。小一條左大臣師尹公の娘です。血統はばっちりです。
古文の教科書にのったときもあるくらいで、こういう話があります。Wikiより引用します。
「類いまれなる美貌で、目尻が少し下がりめの、非常に長い黒髪だったという。『大鏡』には、誇張もあるだろうが、そんな彼女の様子が、「御車に奉りたまひければ、わが身は乗りたまひけれど、御髪のすそは母屋の柱のもとにぞおはしける(お車にお乗りになれば、ご本人は(車に)乗ってらっしゃるのだが、髪の毛のすそはまだ母屋の柱にある)」と記されている。村上天皇の寵愛も厚かった。そのことに関して、中宮の藤原安子が非常に嫉妬し、土器の破片を芳子に向かって投げつけたという記事も『大鏡』に記されている。
また、非常に聡明でもあり、『古今和歌集』二十巻すべて暗記していたという。村上天皇はこの噂を聞き、本当に暗記しているのか、物忌みの日に試験した。ところが、芳子はすべて間違えることなく暗記していた、という記事が『大鏡』藤原師尹の章、および『枕草子』二十段(皇后藤原定子が語る話題として)に記されている。宣耀殿女御瞿麦合を天暦10年(956年)5月に主催。『玉葉和歌集』と『続古今和歌集』に彼女の歌が一首ずつある。」
ということで、両親とも、美男美女で賢そうな様子がわかります。
しかし、この永平親王、見た目は親譲りの美男だったのですが、頭の中はからっぽだったのです。
(なぜかはわからんが、もしかしたら、祖父の小一條左大臣師尹公っていうのが、ちょっと癖がありすぎなのだ。下記に引用する。教育熱心のわりには、これはこの人の遺伝子のせいかもしれない。藤原氏だって、まともな人とまともでない人がいるのだ。)
「他人への対応について親疎や好悪により非常に区別を付け、いかにも癖のある取り扱いをした[3]。また「極メテ腹悪キ人」[4]との記述が今昔物語集に見られる[5]。 故実に反する事があった際には天皇に対してでも反論をし退出も厭わないなど強硬な態度をとり[6]、また業務を怠った国司への加階を定める際に一人「科のある者に処罰もせずに賞を与えるとはどういうことか」と主張する[7]など、異母兄・実頼と似た生真面目で頑固な面も見られる。」
さて、この永平親王は、小さいうちから、頭が悪く、どうも知的障害があったようだ。異母兄弟の冷泉天皇が、狂気の君といわれて、あきらかに狂人だったので、この永平親王もそうである。村上天皇が名君なのに、なにかやばいものがあったのかもしれないが・・・。
まあ、それでお世話をする人々は、大変だったらしい。
今どきだと、まじに自閉症児を世話するようなかんじである。
一応、多少は読み書きができたらしい。教育の賜物である。
ある時、冷泉天皇の皇后である、昌子内親王が冷泉天皇も退位されて、子どももいないので、1人で暮らされているのを寂しいから、「養子を取ろうかな」ということになった。この昌子内親王、当時としては、地位は女性のトップ、人柄もまじめでよい方で、人望もあった。母はこちらも平安の名君、醍醐天皇の孫で、サラブレッド。そして、親が早くになくなったので、遺産など多く引き継いでいたらしく、女性としてはトップクラスの金持ちだった。
それで、なんと、その養子縁組にこの永平親王が候補にあがったのだ。
それで側近たちは、必死でPRしたり、教育を必死でしたりして、衣装も素晴らしいものを用意して、1回目の昌子前皇后の面接に臨んだのだが、ご挨拶程度なので、パスしちゃったのだー。まあ、美男だったので、大人しく挨拶だけしていたら、うまくごまかせたのだ。周囲の賜物である(涙)。
ところが、数か月して(ちょっと記憶にないが、なにか節句とか正月とか、行事のご挨拶だったか)、再度永平親王は、昌子前皇后のところにご挨拶にいく。
そのときに、ぜんぜん季節、時好とかも違うのに、前と同じ挨拶をしてしまったのだ。
昌子前皇后は、「なんとおかしなこと?」と思われた。
もちろん、後ろに控えていた永平親王のスタッフたちは、真っ青だ。
要は、一度必死で覚えたことだけ、もう一度思い出してやっただけで、ぜんぜん応用ができず、知恵がまわらなかったのだ。
他にも、昌子前皇后や女官たち、周囲の人が、いくつか質問しても、顔を赤くして「むむむ」と無言というか、うなっただけで、ちゃんとした返事がない。
(これは、知能が低い人や脳に障害がある人によくある、緘黙という態度です。)
最初のうちは、「ああ、内気で無口な方なのね」と好意的に解釈していた人々も「なんだか、おかしくてよ」となって、裏を取ったら、知的障害の皇子であった。「ああ、冷泉天皇と同じ血筋なのねえ」と思った人々もいるだろう。
さて、でもなんというか、びっくりしたことに、この永平親王、ちゃっかりと昌子前皇后の養子になってしまう。
「冷泉天皇には奇行があったこと、また自身に有力な後見人を欠いたことなどから、昌子内親王は摂家出身の女御たちに遠慮してほとんどを里邸で過ごしたが、資質淑慎で后妃の徳ありと言われた。また仏教に帰依すること篤く、永観3年(985年)2月に北岩倉山大雲寺に観音院を創建したことから、観音院太后(かんのんいんたいこう)とも呼ばれた。子女はなく、村上天皇の第八皇子永平親王を養子とした。
昌子内親王の御所には越中守平保衡女とその娘の和泉式部が仕えており、また晩年には歌人で紫式部の伯父にあたる藤原為頼が太皇太后宮大進をつとめている。昌子内親王の和歌も『新古今和歌集』ほかの勅撰集に入集している[3]。」
とまあ、歴史的記録はそうなっているのでありました。
「栄華物語」には、「沙汰闇になった」とあるが、実際は養子になっている。
性格のいい前皇后なので、
「ああ、これも社会奉仕だわ」と思って、財産も余っているし、財産を残して、はぐれないようにしてくれたのかもしれない。ああ、大変だ。
そして、永平親王であるが、
「永延二年(九八八)十月十三日、薨逝。二十四歳。」
とまあ、たったの24歳でなくなった。頭だけでなく、体も弱かったのだろう。かわいそうに。
母親はとうに亡く、父の村上天皇もいない。祖父もいないだろうから、せいぜいが伯父か叔父あたりが、幼少期に世話していたので、悲しんでくれたかもしれない。
この人がまとめてあるので、ご覧になるとよいだろう。
まあ、このように血筋はサラブレッドで、ルックスがよくても、当人の頭はすっかすかという貴族・皇族はいたのであって、ああ、小泉Jrにそっくりだなと思うのでありました。
永平親王は、皇子なので、隠居と変わらないですが、日本の国会議員はそれでは困ります。
追い出して、別の有能な人に替わるべきだし、アホは大臣になるな!!!
ってことです。
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