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プレ皇室研究: ヤマトタケルはいつの時代?
例によって、Wikiや古事記から、時代を探ります。
ちなみに、仲哀天皇の父になるので、1世代前です。
仲哀天皇は、神功皇后の事跡などから、350年前後の在命のようですから、4世紀です。
「古事記」などからは、帰り道で亡くなったとあり、畿内にまで戻れなかったのです。かわいそうですね。
「墓は、宮内庁により次の3ヶ所に治定されている[13](能褒野墓に白鳥2陵を付属)。
能褒野墓(のぼののはか、三重県亀山市田村町、北緯34度53分4.36秒 東経136度28分55.09秒)
宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は「能褒野王塚古墳」。墳丘長90メートルの前方後円墳で、4世紀末の築造と推定される。
白鳥陵(しらとりのみささぎ、奈良県御所市富田、北緯34度26分43.92秒 東経135度45分1.25秒)
宮内庁上の形式は長方丘。かつては「権現山」・「天王山」とも[14]。幅約28メートル×約45メートルの長方丘とされる[14]。一説には円墳[15]。
白鳥陵(しらとりのみささぎ、大阪府羽曳野市軽里、北緯34度33分4.61秒 東経135度36分14.00秒)
宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は「軽里大塚古墳」・「前の山古墳」・「白鳥陵古墳」。墳丘長190メートルの前方後円墳で、5世紀後半の築造と推定される。」
まあ、副葬品として埴輪などがでていて、古墳時代の前半、4世紀末であれば、350年以降なら悪くないかなあと思います。息子の仲哀天皇が墓を作ったと思うと、ずれてはいません。
これはぜんぜん違うと思うわーwww
「日本書紀でヤマトタケルが活躍した年代を機械的に西暦に換算すると西征は97年から98年、東征は110年から111年になる。また景行天皇の九州巡幸は82年から89年、東国巡幸は123年から124年であり、どちらも帥升が後漢に朝貢した107年の前後になる。そのため書紀の編者は帥升を景行天皇またはヤマトタケルと考えていたことが推測される。(上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧を参照)」
ついでに母親の墓。これも4世紀らしい。
「この日岡陵古墳は、古墳時代前期の4世紀代の築造と推定され、日岡山古墳群のうちでは最古に位置づけられる[3]。被葬者は考古学的には明らかでないが、『播磨国風土記』では景行天皇妃の印南別嬢(いなみのわきいらつめ)の「褶墓(ひれはか)」に関する伝承が見えることから、現在では宮内庁により同天皇皇后の播磨稲日大郎姫命の陵に治定されている[3]。」
神社もある。これまた、面白いことに、ほら横木がない古式ゆかしいタイプww
まあ、お墓の時期からいって、まあまあ4世紀でいいんじゃないかなと思います。
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