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私の「友だち」はハードルが高い

「友だち」って便利な言葉だ。
今日会ったばかりの人にも使える。年齢や性別だって関係ない。言葉が通じなくてもいい。

でも私には「友だち」と呼べる人はほとんどいない。
なぜか。それは、私の「友だち」のハードルが高いからだ。
どうやら、私の思う「友だち」と世間の考えるそれは違うようだ。
ではまず、世間の定義を見てみよう。

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ここで重要なのは、”同等の相手として” という部分だ。
私は、「友だち」のことを”同等の相手として”と思っていない。
”異質で解せないことはあれど許せる相手”と思っている。

そもそも人間同士が100%分かり合えることはない。人間がコミュニケーションを取る場合、その手段はほとんどが言葉や行動となるが、その精度は高くないと考える。

例えば、BさんがAさんにとって違和感のある言葉を発したことについて、AさんはBさんに対して言葉で伝えたいという場面を想像してみてほしい。
(言葉ではなく、音楽でもダンスでも数学でも良い。とにかく、AさんとBさんがコミュニケーションを取る場面を頭に浮かべてほしい)

まずAさんはBさんの声を耳で知覚し、自分の体が感覚したことを脳に伝えるという工程に入る。
ここで一つ目の感覚鮮度ロスが起こる。体が感じた感覚を電気信号によって脳に到るまでに、恐らく最初の感覚の鮮度は落ちているだろう。

次に、脳は感覚を言葉に変換しようとする。
これが二つ目の感覚鮮度ロスだ。
「こんなことが言いたいわけではないけれど、世の中に存在する言葉じゃ表現できないんだ、、!」と思いながらAさんはBさんに対して思いを伝える。

Bさんはその言葉を耳で知覚し、脳に伝える。三つ目の感覚鮮度ロス。
そしてそれを言葉に変換しようとする。四つ目のロス。

つまり、BさんがAさんの言葉を受け取り、それを相手に伝えるまでには四つものロスが存在しているのだ。

”異質なもの”同士が懸命に取るコミュニケーションの中で、そのロスが完全になくなることはない。
そういった意味で、他者とは”異質で解せないもの”である。

しかし人間は、このやり取りを何十何百回とも行ったり、愛を持つことで、”異質で解せないもの”であっても感覚が通じ合うということがある。
それは、ロスがなくなったわけではない。ロスはありつつも、それを許容して愛おしさを感じるのである。

そのような存在を、私は「友だち」と呼ぶ。
私が「友だち」と思える相手はごく少ないが、愛する力を高めることで、
少しずつ増やしていきたい。

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ニライカナ
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