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バタビアから続く洪水と渋滞
ジャカルタに赴任した当初、最も印象深かった言葉は「Banjir(洪水)」「Macet(詰まる, 渋滞する)」、そして「Air Minum(飲み水)」でした。
毎日のようにやってくる豪雨と洪水、それに伴う交通渋滞、その一方で水道水が直接飲めない不自由さは、これから始まる生活に不安を感じさせるものです。今回は、その不自由さが ジャカルタの街の歴史そのものであることのお話しです。
中継貿易の拠点と要塞の建設
スンダ湾のチリウン川(Kali Ciliwung)の河口三角州にあった港町は、12世紀から16世紀初頭には「スンダ・クラパ(椰子のスンダ族)」と呼ばれ、周辺海域から多くの商人が来航していたそうです。
ただし、その当時の中国やインド・アラビアからの大型船は、ジャワ島ではグレシやバンテンなどに立ち寄る程度だったようです。スンダ・クラパは遠浅の海岸なので、小舟でないと荷物の積み下ろしができなかったのです。
16世紀の大航海時代、ヨーロッパ各国(キリスト教)が競うようにアジアにやって来る頃、この港町は「ジャヤ・カルタ(大憲章/勘合の勝利)」などと呼ばれるようになります(命名したのは イスラム教のデマク王国)。
最初にこの港の価値に気づいたのは英国でしたが、オランダもここに商館(砦を兼ねる)を建てようとして、1618年に英蘭紛争が起こります。勝利したオランダは、バンテン王国(デマクの属国)からジャヤカルタを租借して市街を焼き払い、廃墟の上に「バタビア(BATAVIA)」という要塞都市を築きました。
オランダは 1641年にはマラッカまで手に入れて東アジアの制海権を確立し、交易をほぼ独占します(英国・ポルトガルは東南アジアから撤退。スペインは太平洋航路を維持)。「バタビア」は東のモルッカ諸島やマルク諸島、パンダ諸島などの香辛料を集積する中継貿易の拠点とすべく、急ピッチで建設されました。運河が張り巡らされ、周りには城壁が築かれます。
なお、オランダは、明王朝(1368~1644年)末期の混乱を逃れてきた中国人を建設工や港湾労働者として雇いますが、元役人がいれば 事務職としても重用します。原住民(イスラム教徒)の反発に対抗するためです。また、城壁の内側にはヨーロッパ人しか居住させず、それ以外は通行証のある者しか入城できなかったそうです。そのため外国人の居住地が城壁の外に形成されました。
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たバタウィ族(ゲルマン人の一部族⇒ オランダ地方の古称)に由来。
要塞は40年間で大都市に成長した。『1667年の城とバタビア市の地図』
バタビアの街はどこにあった?
ジャカルタ生活の長い人に「昔のバタビアの街はどこにあったんですか?」と聞いても、なかなか教えてもらえません。だから自分で 昔の地図を探して、1897年のバタビアの地図を見つけました。眺めてみると、上の地図の最下部でチリウン川が柄杓のように曲がっている部分に気がつきます。そうです、一番下(南)の角が現在の「グロドック市場」辺り・・・・ Jl. Pancoran と Jl. Mangga Besar 2 が交わる所なんです。
また、「Jakarta」の文字の下の道が今の「Jl. Pangeran Jayakarta」で、その先に中国人墓地が広がっています。中央の中国人墓地から南南西に向かって「ジャカルタ街道」(Jl. Gunung Sahari ⇒ Jl. Pasar Senen)が整備されていきます。なお、右の全体地図の右側(注:左側の 150%拡大)には、チリウン川の東側一帯が描かれていますが、圧倒的に斜線部分が多い・・・・ まだ外国人は少ないことがわかります。(下図:1897年の地図。左は一部を拡大)
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西方辺りまで住宅開発が進んでいた。(全体図の下半分は 後で掲載)
注:「グロドック」はスンダ語の "玄関口"・・・古代スンダ王国への入口
さて、現在のジャカルタ地図に戻って、「グロドック市場」から目を上にやると「Kali Besar」(中央運河)です。なぜか「運河」ではなく「De Grote Rivier」と記されたので、"偉大な川" と呼ばれます。さらに上には「Kasteel Batavia(バタビア城)」の要塞があります(上掲地図の青い★印)。
運河を張り巡らせた意味は?
オランダはバタビアを拠点にして、中国・日本の産品や島々の香辛料の交易を独占し、莫大な利益を上げていました。しかし、急増する人口・・・・ 大量の食料品の搬入とゴミ・汚水(排泄物)の処理にも悩まされます。古代ローマを除いて、世界のどの都市も "開放型下水道"(汚水を川に流す)が普通ですし、ゲルマン系の人に至っては 道路に汚水を流すのが当たり前でした。
1800年当時 テムズ川(ロンドン)もセーヌ川(パリ)もまだ開放型下水道でしたから、その 200年前のバタビアは大変だったでしょう。運河を張り巡らせることで、洪水と汚水処理の両方の課題を解決しようとしたわけです。
しかし、雨季には毎日のように豪雨があり、洪水となって、仕事も生活も中断されます。さらに、雨量の減る乾季はもっと問題です。河川・運河の流水量は減って悪臭が漂い、衛生面の悪化により赤痢やマラリア、コレラ等に倒れる病人が相次ぎます。郊外の上流に庭園付き邸宅を建てて住みたいという要望は多く、南にも開発計画が進められました。(下図:1682年の地図)
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Jl. Gajah Mada/Jl. Hayam Wuruk)と、チリウン川の東側を並行して走る
道路(★Jl. Pangeran Jayakarta ⇒ Jl. Industri Raya)等が 既に計画された。
少しでも上流に住みたい?
1644年の清(北方民族)の建国と大飢饉、そしてボルネオ島で金鉱発見の噂によって、中国から移民がジャワ島にも押し寄せました。彼らをオランダ人はどんどん雇うものの、城壁の中での居住は白人しか認めませんでしたから、彼らは城外に居住するしかありません。
マラリアなどの疫病に悩まされた住民は より良い住環境を求めて「ジャカトラ通り(Jacatraweg)」に移住しました。当時、この地域は広大な庭園を備えた上流階級の集落でした。チリウン川沿いにバロック様式の柵で囲まれたオランダ風邸宅が並び、水浴場や船着場があり、奴隷が漕ぐ小型船で近隣の住民を訪問する習慣があったそうです。
また、「西洪水運河」が西に直角に折れる地点(★Jl. Tanah Abang I 東端)からバタビアの中央運河に向かって、直線の運河が掘削され、その両岸に外国人たちが暮らし始めます(★Jl. Pintu Besar Selatan ⇒ Jl. Hyamu Wuruk/Jl. Gajah Mada)。周りは広大な田園地帯で、"原住民" の王侯・貴族の所有・・・・ "租借(賃貸)" の形で浸食していったわけです。(下図:1750年の地図)
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く。中央運河から南に直線に延びる運河沿いに集落ができ始めた。
洪水を避けたかったのはオランダ人も同じです。バタビアの都市施設の劣化と悪臭、地下水汲み上げによる地盤沈下は酷くなっていました。また東インド会社も汚職と放漫経営で行き詰まり、オランダ本国も1793年にフランスのナポレオン軍に占領(実施的に併合)されてしまいました。
この混乱のなかで、フランスと敵対する英国が東アジアの制海権を獲得したため、バタビアもオランダ国旗を掲げていられません。英国海軍の砲撃に備えるためには、当時の射程外になる3海里(約5km)の内陸に移転する必要がありました。
1808年、オランダはバタビアの要塞も海岸の倉庫なども放棄して、約5km南の地に政庁や商館などを移転することを決めます。「海岸の要塞都市バタビア」の歴史の終焉でした。
ここで、下の1840年の地図を見てみましょう。バタビアの真南に、大昔は島だった "赤/兄の丘" があるのがわかります(丘なので運河は掘削できず、水利が悪い)。中央運河から一直線に運河が整備され、それとチリウン川とを丘の手前で東西に結ぶ運河(★Jl. I.R.H. Juanda)の両岸にオランダの役所や商館、病院などが集まっています。
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(★Jl. I.R.H. Juanda)が掘削されていて、チリウン川と連絡する。その東岸に、
目抜き通り(★Jl. Gunung Sahari)が開通し、東側に居住区ができている。
新市街は「十分満足な街」
最後にもう一度、1897年の古地図に戻ってみましょう。その頃まで、ジャワの王侯・貴族は外国人に土地を貸し与え、その賃貸料で収入を得ていました。網目の部分が白人と中国人が居住した地区で、斜線の部分が原住民(イスラム教徒)の居住地です。
また、後年「独立記念公園」となる「国王広場(Konings-plein)」が既に確保されています(やや形が変わりますけど)。この「国王広場」周囲には植民地政府の諸機関や各国の商館、病院や学校などが建てられ、白人と中国人やインド人・アラブ人などの居住地が集まっていきます。
さらには 1821年、オランダは原住民(イスラム教の王侯貴族)が土地を賃貸することを禁止し、彼らの土地を接収しました。また、チリウン川沿いのアラブ系金持ちの私有地(水田・畑・ココナツ畑など)を買収して「十分満足な街」として開発を進めます。「月曜市場」と「門騰」がそうです。
そんな話は、また別の機会に。
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21世紀になっても、高級住宅に住んでいても、洪水にも交通渋滞にも遭うでしょう。また、水道水が直接飲めないことに変わりはありません。バタビアから続くそうした不自由さを、むしろ楽しむくらいの気持ちでいて ちょうどよいのでしょうね。
ジャカルタ事件当時の思い出
ジャカルタ散策と裏の話
ジャカルタ散策を楽しむ裏技(1)
インドネシア語の略語
Tahu sama tahu 魚心あれば水心