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福田翁随想録(13)
好意は時に悪意に転ず
長く患っていた叔父に元気をつけてあげたくて、青木繁の代表作である筋肉隆々とした漁師たちが巨大な鮫を担いで帰る油絵『海の幸』の複写をお見舞いに持って行った。
当時私は二十歳だったが、かつての虚弱体質から見違えるほどの健康体になってスポーツに打ち興じていた。
叔父はどんなに喜ぶかと、一人合点していたのは若気の至りだった。
「見るだけで疲れるし、この鉄砲ユリも匂いが烈(はげ)しいから持ち帰ってくれ」
と、ビシャリと言われた。
後年私自らが病気になってみて、この時のことを思い出し、病人に対する配慮が足りなかったと反省した。
静謐(せいひつ)が一番有難いところに場違いの「喧騒」を持ち込まれれば迷惑だ。好意であっても意に反した悪意に転化してしまう。
ここのところ家人は心臓機能の低下で胸苦しく、高齢でもあり恢復(かいふく)もはかばかしくない。私が書く色紙の「夜明けの向こうに 明日がある」という文言が好きだと言っていつも傍(かたわ)らから離さないで見てくれている。
落ち込む気持ちを引き立て、明日はよくなるかもしれない、明日は楽になるかもしれない、と期待をかけて生きられると心の内を話している。
ところが、別な色紙に、
友悲しめば 我は泣き
友喜べば 我は舞う
と、書いてあるのを見て、こちらの方は健常な人の言う科白(せりふ)で面白くもない、ときっぱりと断定している。
なるほど言われてみればそうかもしれないが、家人の姉は好きだと言ってくれている。義姉は米寿近いのにこれといって身体に悪いところがないからかもしれない。
この文言は、確か旧制一高の寮歌の「我喜べば友は舞う」からヒントを得ていたと記憶している。
私があえてこう直したのは、「他の人はどうあれ、私は泣きそして舞うのだ。他の人を当てにしていて無関心でおられればその落胆や恨みつらみは消えない。他はどうあれ俺はこうなんだ」といった、相対関係から抜け出す心境を籠めたかったからだ。
そうした私の心理の底には「今は病気をしていない」という大袈裟にいえば傲(おご)りがあるかもしれない。家人にしてみると、自分の弱った心臓へのいたわりに精一杯で、とても友に対して泣いたり、舞ったりするゆとりがあるはずがない。
私は虚を突かれた思いで、人によっては確かにそう読めるかもしれないと納得した。
家人とそんな話をしていて思い出したことがある。
現役の頃に、友人知人から定年引退の挨拶状をいただくと
辿りつく 峠の先は 花の里
と、一筆し、時節の花を描いて差し上げていた。
ところがいざ我自らが引退する時、これからの長い老後の暮らしは果たして「花の里」といった平和な美しい生活が保障されているのかと不安になった。私は現役の身で所詮職場を去っていく人たちとは距(へだた)りがあり、その心情に立ち入れなかったと反省した。
こう言ったら、振る舞ったら相手はいったいどう思うだろうか、という影響や配慮は相手の立場に立って考えたいものである。
これまでのことは日常生活における市民生活にとどまるが、こと公職となれば複雑で、面倒なことになる。
例を挙げると、ポルトガルの首都リスボンで開かれた日本絵画展の開幕祝宴で、日本大使館のある外交官が何を考えたのかフランス語で祝辞を述べ、リスボン市民の関係者から不興を買ったということがあった。ご本人はいともご満悦だったというから、国辱ものではないか。
これに似た体験を私もした。
新渡戸稲造博士終焉のジュビリー病院に鎮魂の意を籠めて「看護婦戴帽式」の拙画を、バンクーバー日本領事館を通して寄贈しようとしたが、民間からの要望には応えられないと断られた。
その後日本移住の会をお世話している廉毛達雄氏の奔走で私の微意は叶えられたが、お役所の事なかれ主義には呆れてしまった。
尚、私の渡加に当たってはお願いもしなかったのに、わざわざ駐日ランキン大使が各方面で助けになる紹介状を、速達で出発する日の朝届けて下さった。
私はこのご厚意に沿うよう、ささやかながら両国の民間外交に努めたつもりだが、両者の配慮にはこのような距りがあった。