福田翁随想録(37)
利に迷わなければ損もない
引退する時、私名義になっていたゴルフ会員権五枚すべて会社に奉還した。だから今は手元に一枚もない。
東京近郊のゴルフ場のほとんどは大手代理店が中心になって造成されたものばかりだが、出来たばかりの頃の売れ行きは芳しくなかった。したがって取引関係にある放送事業会社のわれわれに向かっての販売勧誘の圧力は激しかった。
誰一人としてゴルフをやらない盛岡本社にお伺いを立てても、閑人の亡国玉転がしとけなして、当時五十万円だった会員権購入に賛成してくれなかった。
板挟みになった私は仕方なく、会社から借金をして代理店の希望に沿って購入することにした。それで一件落着となった。
土地は三十六ホールズという広さで、クラブハウスはといえば有名設計家の思うままにやらせたので高額な設計費用になったのは言うまでもなく、竹を半分に割って乗せたような反り屋根に壁面は総ガラスという、遠くから見たら度肝を抜く建物だった。
やがてゴルフブームとなり、このゴルフ場はAクラスにランクされ、権利金額もうなぎ上りになって一億、二億の値がつくようになった。
引退したら現役の時のように頻繁にコースに出られるわけでもないだろうし、そもそも会社があったればこそ買えたのだから、会員権の名義変更に当たってはなんの疑念も逡巡もなかった。もし私が理屈をつけて今も持ち続けていたら、さぞかし下劣強欲野郎と陰でささやかれていたことだろう。
そんな陰口をたたかれるうえに、時価高額評価で税務署からのお呼び出しに応じなくてはならないとしたら、と考えたのだ。私は無欲恬淡居士(てんたんこじ)ではないが、結局差し引いたら奉還してかえってプラスになったように一人合点している。
ご時勢からこれまで、こうしたらよい、これを買ったらよいなどといろいろなお誘いがあったが、私には蓄財の才がないのか、面倒くさいことが嫌いなのか、馬耳東風だった。
滑稽なことに私をなんと見たのか、バンクーバーを引き上げる時にしきりに住宅購入を勧めてくる御仁がいた。確かに日本では考えられないほど敷地、建物の値段は安かった。安いからといって買っても住むわけではないのだからどう利用せよというのか。信用できる日系人に貸すのか。カナダドルでの決済はどうするのか。貸していた日系人が代替わりしたらどうするのか。私が死んだら遺族はどう処理したらよいのか。ちょっと考えただけでも煩わしくてとてもそんな話に乗れなかった。
不動産売買のことで、別な話を思い出した。
紹介したい人を連れて行くから待っていてくれという電話をもらった。大蔵省を辞して税理事務所を開いている旧友からだった。
やがてその友人と未知の中年紳士が訪ねてきた。話を聞くと、バンクーバーに十一口の豪華な集合住宅を作ったが、三口は売れたもののあとは売れずに空室のままで困っているという。で、私のバンクーバーの知り合いを紹介してほしいとの全く不案内な私へのご依頼である。私に名案があるわけがないから丁重にお断りした。
ご本人は新宿の古くからある花屋の三代目で、今までの店舗を壊して賃貸マンションに建て替えたがこちらの部屋の借り手もなく、銀行からの支払い催促に頭を悩ませているとのことだった。二重苦の話だった。
八十年代も終わりになると、日本の経済界にも雲が張り出し、薄日模様になりつつある状況の頃だった。それにしてもどうしてバンクーバーに進出しようなどと考えられたのだろうかと、首を傾げざるを得なかった。
およそ百年前のバンクーバーは、ゴールドラッシュや魚、木材の取引で賑わい、その面影を今日ショーナシー地区に残している。東京でいえば田園調布の高級住宅地区の数倍もある広大な場所で、亭々とした雲衝くようなモミの巨木が邸内に林立し、その間から豪華な二階建てが見え隠れしている地区である。
ある時知人を訪ねてその屋敷のひとつに入ったことがあるが、東洋系の数家族が雑居していて由緒ありげな二階への手すりでは子どもたちが滑り台がわりに騒ぎながら遊んでいた。好景気の時代には富豪が豪華絢爛、優雅な生活を享受していたろうに、今や様変わりして避難民然とした感じになってしまっていた。
今日のバンクーバーに、このような広大な屋敷にかつてのように華やかに豊かに住める人はそう多くはない。子どもが独立してしまって老夫婦だけになればそれにふさわしい規模のアパートに移り住むというのが普通になっているようだ。
いやしくも海外に投資するのならば、慎重な市場調査をしてからにすべきではないだろうか。欲に目がくらんだ三代目は自分で自分の首を絞めることになったうえに自分の居場所もなくしてしまった。
世間が浮かれていようがいまいが、利に迷わなければ得もないけれども損もない。
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