福田翁随想録(15)
なにが人を幸せにしてくれるのか
誰もが幸福、無事、平安を希(こいねが)っているだろうが、世渡りには平坦な大道ばかりがあるわけではない。
厚い壁にぶち当たって二進も三進もいかなくなった時に「艱難(かんなん)汝を玉にする」という格言がどれほど勇気づけてくれたかわからない。そうは言っても、どうしても初志を貫けず敗退する場合だってないわけではないが。
戦国時代の武将、山中鹿之助は尼子(あまご)家再興のために毛利元就(もとなり)と戦った時、「七難八苦を我に与え給え」と神に祈ったが、利あらず破れてしまう。しかし敗軍の将となってもくじけなかった。鹿之助の燃えるような使命感の方が身に振りかかる危難より強かったからこそであろう。
私事になるが、終戦直後東京が焼け野原の頃、県民紙の目的を果たすため進んで東京駐在を申し出た。若き燃えるような使命感があったればこそ衣食住の苦労に耐えることができたように思う。
また、昭和二十七年各地の新聞社が音頭をとって民間放送の申請をした時、当時は見通しの立たない乱暴な事業と思われていた。岩手放送創立当時は真剣に夜逃げを考えるほどの艱難があった。
いくらか集まった出資金は創立事務で消えてしまい、郵政省には進捗状況を報告しなくてはならないしで、一時進退窮まってしまった。地獄の縁を渡る苦しさも使命感があったればこそなんとか耐えることができたものの、あの局面で挫折していたらお縄頂戴になるところだった。
かつて高度経済成長を謳歌し、皆がバブルに浮かれていた当時の「幸福図」はこんなところにあると新聞で読んだのを憶えている。
勤めは一流企業/ゴルフ宴会誘いが絶えず/株式預金がかなりあり/子どもは東大出/家は都心の一等地/健康診断異常なし
皆が皆こうではないにしろ、一九八〇年代の風潮を言い表していて妙である。
ところが、百五十年ほど前の文化文政の戯(ざ)れ歌はこうだった。
いつも三月花の頃 お前十八わたしぁ二十歳
使って減らない金十両 死んでも命のありますように
また、その頃の蜀山人(しょくさんじん)は
幸いは春の桜に秋の月 夫婦揃って三度食う飯
と、いかにも狂歌詠みらしい作である。
これを比べてみて気がつくことは、バブル時代の幸福感は終始「もの」に徹しているのに、江戸末期の人たちには花鳥風月を愛でるゆとりがあるではないか。
したがって「減らない金十両」はお愛嬌だが、八〇年代の場合「もの」が消滅したらすべて消えてなくなってしまうだけではないか。百年の歴史を誇った企業でも一歩誤れば高層ビルが蜃気楼になって目の前から消えてしまうか、音たてて瓦壊するという現実があったことをわれわれはお互い見てきたではないか。
幸福度の内容はひと言では言いきれないし、人それぞれによって違うが、蜀山人が詠んだ「夫婦揃って三度の食事を共にする」ことは、簡単なようでいて難しい。お互い歳を重ねてくるとどちらか欠けることもあるだろうし、そうなると食欲も進まないし、毎度毎度楽しく食卓に着けない。
ここで思い出すのは童謡唱歌集にある『冬の夜』である。この歌われている情景は大正一桁生まれの私どもには普通に見られたもので、口ずさむたびに切なくも子どもの頃を思い出す。
燈火(ともしび)ちかく
衣縫(きぬぬ)う母は
春の遊びの楽しさ語る
居並ぶ子どもは指を折りつつ
日数(ひかず)かぞへて喜び勇む
囲炉裏火(いろりび)はとろとろ
外は吹雪
母は指がヒビ割れで痛くとも、破れた着物を繕ってくれた。五人兄弟の末弟の私は、祖母に飽きることなく昔話をせがんだ。雪の降る夜は長く厳しかった。
子ども心に世の中の不景気が分からないでもなかった。しかし家の中には空調がなくとも炭火を入れた炬燵があり温かかった。生活水準は今日現在を土台にして考えてはならない。
石油は貴重品で、灯油で黒く煤けたランプをキュツキュツと手を汚しながら磨くのが、子どもに割り当てられた仕事だった。
そんなことを思い出して書いているが、その時はそれが普通で別に不憫とは思っていなかった。床の中に炬燵掛けの少し焦げ臭くなった刺し子をいれてくれる母が、足の指一本一本丁寧にぬるま湯で寝る前洗ってくれた。これが後で考えると、スキンシップとでもいうのだろうか。