福田翁随想録(14)
生きるも独り、死するも独り
私のツツジ好きは母からの遺伝らしく、今も狭い庭ながら色とりどりの種類を集めて楽しんでいる。いつか家人が次のように詠んだのを傘寿と喜寿記念に編んだ『幾山河』(皓心社)に載せた。
希(のぞ)み来し季(とき)に逝きたる姑(はは)にして
棺は覆はる 白きつつじに
寝顔が埋まるほどに満開の花で飾ったので、さぞかし母は満足だったかもしれない。
それにしてもわが死期を好きな季節に合わせることなど容易なことではないだろう。
思い出されるのは、西行(1118~1190)辞世の一首である。
願わくは花の下にて春死なむ
その如月(きさらぎ)の望月(もちづき)のころ
西行にとっては意識するでもなく身も心も大自然の中に融け込んでしまっている。そうであるからこその願いであり、結果その通りに遂げられた。
永遠の生命ともいうべき死生観を持っていたろうから、死もさほど重大なこととは考えていなかったのかもしれない。
先年インドを旅した時のことだが、ヒンズー教の聖地ベナレスでは死体を焼くそばで水浴し身を清める群衆で溢れていた。いささかも悲愴な雰囲気がなかった。「死」とは「存在の脱皮」とする宇宙観からきているからなのかもしれない。「生」と「死」とは表裏をなすもので、悲嘆にくれることではないのだろう。
谷崎潤一郎は晩年ひたすら死を怖れたそうだが、菊池寛は次の言葉を残している。
在る時に死来たらず 死来る時に我あらず
我と死とついに相会わず 我何ぞ死を怖れんや
これはギリシヤの哲学者エピクロスの『教説と手紙』にある「我が存在する時に死は存在せず、死の存在する時我なし」に触発されての言葉かもしれない。
生と死は互いに行き違いになってしまうから死ぬことは怖ろしくないという結論になるのは、短絡に思うがどうだろうか。生と死は相会うことがないから神秘であり、不可知である。それゆえ死に対して不安や怖れを抱きがちになるのだが、菊池寛ほどの人がどうその辺を理解していたのか今となっては聞くすべもない。
孔子でさえ生と死について
未(いま)だ生を知らず
いずくんぞ死を知らん (先進篇)
と、明言を避けている。
中江兆民が明治三十四年に、余命一年半と喉頭がん宣告を受けた時は四十歳代だったが、有名な『一年有半』に次のような心境を述べている。少し長いが引用したい。
「一年有半、諸君は短促(たんそく)なりと曰(いわ)ん。余は悠久なりと曰(い)う。若(も)し短と曰はんと欲せば十年も短なり。五十年も短なり。百年も短なり。夫(そ)れ生時限りありて死後限りなし。限りあるともって限りなきに比す。短にはあらざるなり。始めよりなきなり。若しなすありて且つ楽しむにおいては一年半これ優に利用するに足らずや。嗚呼いわゆる一年半も無なり。五十年百年も無なり」
今日がんは医療技術の進歩のおかげで完治させ得る病であるが、当時は死の宣告を受けるに等しかったはずなのに、死後は始めのない、したがって終わりもない悠久の宇宙時間、あるいは地球時間を信じていたからか、兆民は区々(くく)たる有限の二十四時間時計に拘ることはなかった。
クリスマスに歌われる『きよしこの夜』の歌詞に「救いのみ子は ま船の中に 眠り給う いと安く」とあるが、われわれは宇宙時間の上に乗っかって二十四時間時計の「ま船」で寝たり起きたり遊んだり仕事したりしていると考えられないだろうか。
一年半だろうが、五十年、百年だろうが悠久の尺度からすると、論ずるにも足りないごく短い時間となる。
寿命学研究所の菱沼従平理事長の予測によれば、二〇二五年の日本の平均寿命は男性が七九・七五歳、女性が八六・四八歳と測定し、今日の世界水準の上をいく長寿国記録をさらに延長するだろうとしている。
しかし他方、独自の調査をしている西丸震哉氏は、食糧や環境の汚染を考えれば来世紀初頭に入って四十一歳平均になるかもしれないと警告している。傾聴に値する。
この両説いずれにしても、二十四時間時計に支配されるこの世のことであって、将来だけが証明してくれることである。
それにしてもわれわれは生まれたからには一人で生き続けていかなくてはならない。
「生ぜしも独りなり、死するも独りなれば、人と共に住するも独りなり」と、一遍(上人)は孤独の厳しさを覚悟せよと説くが、良寛(和尚)となればこうなる。
世の中にまじらぬとにはあらねども
ひとり遊びぞ 我は勝れり
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