福田翁随想録(12)
知らない人に救われている
先日眼科で診てもらったところ、白内障と宣告を受けた。
白内障は病気というより眼の機能低下で、医者が処方してくれた目薬は治療目的ではなく進行を遅らせる働きしかないという。
若い時は細字に抵抗なく、新聞はタブロイド判で十分ではないかと思っていたものだが、八十歳を越せばそれなりの不具合が出てくるものである。
医者だった中学の時の旧友が、生前こんな短歌を送ってくれていた。
アイバンク登録終えし冬の夜は こよなく星の輝きて見ゆ
毎日の暮らしのなかで視力に不自由すると、よくこの歌を思い出す。
新聞記者時代、岩手医科大学の今泉亀撤(きてつ)教授が日本で初めて角膜移植手術に成功し、私はその取材で奔走したことがあった。当時は死体損壊で刑法に抵触するなどといわれて騒がれたものである。ご承知の通り今日では、多くの人がこの手術により健常を取り戻せている。
ともかく移植手術が広く行われるようになってアイバンクも日の目を見るようになったが、亡くなった旧友のあの涼やかな目が、いまどこのどなたのところで蘇生しているのだろうかと思いやる。
こうした善意の美談が暗いニュースばかりの世の中をどんなに明るくしてくれていることだろう。
私は先年、胃潰瘍で入院し五分の四を摘出された。その時発見された胆石も除去してもらったのだが、多量の輸血を仰いで一命が助かった。
適合しないと輸血でも悪性障害を引き起こすことがあるようだが、幸いそのようなこともなく集中治療室から早々に出ることができた。心静かに回復を待つ入院生活でしみじみわが運の良さに感謝せずにはおれなかった。
私の命を救ってくれた血液の提供主を探索することはできない。このご恩返しはどうしたら果たせるのだろうか。この感謝の気持ちを「社会」のお役に立つよう心掛けることで、わずかながらも示せるのではないかと考えている。
義母にとても良い短歌がある。
生を享け 日月火水木金土 生かされて行く 来る年迎へ
卒寿をはるかに越して天寿を全うしたが、この歌は喜寿の時のものである。
義母の態度はこの通りで、「家族にはなるべく心配をかけたくない。みんなのお世話があればこそ息災に暮らしていける」という謙虚さを最後まで失わなかった。私はこの無言の訓(おし)えにどれだけ感動したかわからない。
先ごろ友人が郷里で一人暮らししていた米寿の母を東京に呼び寄せた。ところが身体の不調が快癒すると、日々帰りたいと駄々をこねて困っている、と打ち明けてくれた。故郷の慣れ親しんだ家に戻れば柱一本の傷にも若き日の思い出が刻まれているのである。一家挙げて厚遇されればそれだけ反って帰郷の念が強まるのかもしれない。
頑固さは超高齢者にとって異常ではない。それが通常と思い込んでいるから家族にとっては困惑以外の何物でもない。よく厚生省では美辞麗句を使って在宅介護を奨励し、ある政治家などは美風と公言しているが、恵まれた環境でもそこにはそれなりの悩みの種が落とされている。介護する側にもされる側にも「悪意」はなく、「善意」しかないだけに深刻といえば深刻といえるだろう。
このケースとはまた違う別な友人の話である。
この友人とは私は若い頃に一緒に仕事をしていたが、怒った顔を見たことがない。当時組合運動が盛んで、無理難題を吹っ掛けてきても柳に風と受け流す彼の人柄は高く評価されていた。
彼には、虚弱で多年にわたって人工透析を行っている夫人がいた。
帰宅すれば夫人の世話にかかりきりになっていたようだが、社に出てくれば全くそのような家庭内の苦労の塩たれ顔を見せなかった。そんな献身的な彼を夫人は感謝するどころかいつも介護の頼りなさを難詰していたということである。
夫人は先ごろ亡くなったが、友人はヤレヤレといった肩の荷を下ろした態度を見せなかった。夫婦愛といえばいかにも聞こえはいいが、私は夫人の親戚筋から内輪話を聞いて憮然とした。
その業の深さに対して、友人のなんとしっかりした自然体であることか、遠く私など及ぶところではない。