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念ずれば花ひらく

  
「それでもあなたは天才に生まれ変わりたいですか?」 
 今朝もまた性懲りもなく、もう一人の自分がそう問い掛けてくる。
「神の如き才能がほしいですか?」
 ――もう解ってるよ。解っちゃったんだよ。 
「成功しないのは、成功するに至るほどの努力が足りないからだ」
 余人が及ばぬ未曽有の功績を遺した、まさに天才と冠すべき偉人がそう告げている。
 果たしてそうなのか。「努力」だけの問題なのか。「努力」で済まされる話なのか。
 素養、才能にさほど恵まれていない者が、いくら努力したとしても偉人のような成功は得られないというのが真実なんじゃないのか。「努力」だけでは奇蹟は起こせないんじゃないか。
 脳科学者も言ってる。遺伝七、八十パーセント、環境数パーセント。人には向き不向きというものがある。やりたいことでもその資質がなければ大成は難しい。ならば早い段階ですっぱり諦めて遺伝に即した他の道を、分野に方向転換した方が正解なのだろうか、賢明なのだろうか。
 一度きりの人生、やり直しが利くうちに見限ることが大切なのか。才のない者は「努力すれば必ず報われる」などというご託宣とは縁を切るべきなのか。努力が足りないなどと叱咤し鼓舞するのは無責任であり、無慈悲なことじゃないのか。
 刻苦勉励により業績を遺せるかもしれない。しかし、偉人のような偉業が達成できるとは限らない。妄信的な「努力」はただの苦行と化し、死に際に大きな遺恨を残す……。
 
 つい先だって、十二月一日「田中一村 奄美の光 魂の絵画」展が終了した。一村が晩年心酔していたピカソの展覧会も催されたことのある東京都美術館での大回顧展だった。
 日本画に全身全霊を傾注し続けて逝った彼の生涯を想い遣る時、ミケランジェロ、ベートーベン、ドストエフスキーなどの神の如き天才芸術家たちの生涯と重ねて想い浮かべてしまう。
 突き抜ける才能を授かったことで、避けがたく迎い入れなければならなかった業苦のような宿運。
 洋の東西を問わず、これまでに高名な評論家によって、絵画、彫刻、音楽に異才を放った天才芸術家たちの悲劇的な実像が解き明かされている。苦行を引き寄せるように招き入れ、苦闘し続けた偉人たちの素顔が明るみにされている。
「そうなんだ。しかしそれでも最高の人生じゃないか。偉業を果たせたのだから」と、かつて軽く受け流していたが、今ではもうそんな能天気な感想は抱けない。神の如き、宿命的ともいうべき才能がもたらす悲劇について深く考えさせられる。 
 ロマン・ロランは「ミケランジェロの生涯」でこう書いている。
 
 彼ほど天才の餌食になった者はいない。天が与えた神の如き才能は、本人の精神や肉体では抑えが効かない、まさに恐ろしい生命体だった。それゆえひと時の休息もなく働かされた。彼の生活は、まるで強制労働させられている囚人のようだった。……死にたくなるほど苦しんでいたが、死ぬことが出来なかった。なぜなら生命力に満ち溢れた狂おしいまでの力が宿っていたからだ。それによって自分の気持ちとは裏腹にひたすら行動させられていたのだ。この極限的な矛盾のなかで地獄の苦しみを味わっていたのだ。 
 
 父親が病に倒れ、経済的理由からわずか二か月で日本美術学校(現・東京芸術大学)日本画科を中退せざるを得なかった。その後彼は力仕事の傍ら売り絵を描くことで家計を支えた。
 絵を描くことを幼少から定められていた画の神童だった。彼が中退せずに日本画研鑽に注力できていたら、まちがいなく同期の東山魁夷、橋本明治、加藤栄三らと肩を並べて中央画壇で不動の評価と地位を獲得していたはずだ。
 かつての学友たちが活躍するのを遠くから眺めながら、独学で自分流の絵を描き続けた。得意とした南画、琳派流から独自の画風を模索していった。当時の日本画家たちも西欧の画家たちの絵に影響を受けながらそれぞれの作風を模索し、確立していく時代だった。一村もピカソに傾倒し、その影響を受けつつ独自の手法を獲得していった。
 三十九歳の時に川端龍子主宰の青龍展において「白い花」が初入選を果たしたものの、その後は日展、帝展などの公募展に出品するも評価されることなくことごとく落選し、ついに中央画壇と袂を分かつことになる。
 恵まれぬ環境で、その恵まれないが故に、彼の才走った意識、言動は大きく変容し始める。
 五十歳でそれまでの画業生活を清算し、返還されたばかりの南国・奄美大島に単身移住。己れの目指す絵を描き続ける道を選んだ。日本画に情熱を傾ける強い意志と並々ならぬ覚悟があった。 
 奄美に移住して十八年後、入賞履歴、個展開催歴もなく、無名のまま数十点の渾身の奄美作品を遺してこの世を去った。六十九歳の孤独な死だった。
 その二年後メデイアの人間として初めて一村の生涯に惹かれ取材を開始したのが、当時南日本新聞大島支社勤務の中野惇夫記者だった。記事・コラムで一村の生涯と遺作展が準備中であることを紹介した。 
 日本画の専門家として没後初めて評価し、初遺作展に尽力したのが、当時奄美高校に赴任していた西村康博氏(東京芸術大学大学院日本画科修士)だった。
「田中一村画伯遺作展」(名瀬市中央公民館・昭和五十四年十一月三十日~十二月二日)には延べ三千人を超える市民が詰めかけ、驚きと感動で迎えられた。人口五万の地方都市が一村ブームで沸いたという。
 その四年後の昭和五十九年、NHK教育テレビ日曜美術館で「 黒潮の画譜――異端の画家・田中一村」が全国放映され、日本中で大変な話題となった。
 
 私もこの「日曜美術館 黒潮の画譜――異端の画家・田中一村」の放送ではじめて田中一村の存在を知った。貧困をものともせず絵を描くことに全身全霊を傾け続けた彼の壮絶な生き様、生涯に、強烈な衝撃を受けた。
 田中一村という人間のことをもっと知りたい、作品のすべてを見てみたい、終焉の地となった奄美の居宅にも行ってみたいと激しく思った。その後一村の名が知られるようになり、刊行される出版物や放映される関連テレビ番組に触れるたびに、自分一人置いてきぼりを食らっているような寂しさ、落ち着かなさに悶々とさせられていた。
 一村のことはこれまでに自分の大切な記録として何度か書こうとしたことがあったが、いつも自分の未熟さ、理解能力のなさに阻まれ、忸怩たる思いのまま中断させられていた。
 今回の東京都美術館で開催された「田中一村 奄美の光 魂の絵画」回顧展に触発され、中途半端でもいい、今とにかくなにかを書き遺しておかなければという急き立てられるような思いに駆られた。その思いに一村自身の言葉が重なってもいた。 
「私の死後、五十年か百年後に私の絵を認めてくれる人が出てくれば良いのです。私はその為に描いているんです」
 この東京都美術館での回顧展がまさに一村のその願いを現実化したように思える。没後四十七年の二〇二四年九月の開催である。晩年一村が心から敬愛したピカソの展示会が開催されたことのある同じ美術館でだ。
 今回東京都美術館で、千葉から終焉の地となった奄美時代までのほぼ全作品を集めた回顧展が開催となったということは、日本の美術界での確かな評価を勝ち取ったことであり、美術史に今後名を連ねていく確固とした存在になったともいえるだろう。
 
 番組で紹介されてしばらくたった頃、その当時日展の審査員をなさっている日本画家の方とお話しする機会があって、一村の作品についてご意見をうかがったことがあった。返ってきた答えは意外なものだった。「受ける印象が病的で、薄気味悪い」との言葉が返ってきた。
 もちろんそれが一村作品の決定的評価ではないが、日本画で名を知られた方のひとつの見立てであることに違いはない。確かに彼の絵には隠微ななにか恨みつらみを塗り込めたような気配が感じられなくもない。
「私の絵の最終決定版の絵がヒューマニティであろうが、悪魔的であろうが、画の正道であるとも邪道であるとも何と批評されても私は満足なのです。それは見せる為に描いたのではなく私の良心を納得させる為にやったのですから……」
 と、知人宛ての手紙に書いている。
 単なる静物画、風景画ではない。観ている人間の心奥に迫ってくるような強烈な印象を抱かせる。穏やかな鑑賞者ではいられなくさせる。それが一村の気迫であり、凄みであり、病的、不気味だと受け取られようともそれで絵の魅力が減じられるものではないように思われる。
 絵に身命を捧げ尽くした一村の覚悟と気迫を感じさせる逸話が遺っている。
「その方(ある高校の美術教師)の絵は趣味じゃないですか。命を削って真剣に芸術と取り組む覚悟があるとは言えません。しょせんは趣味の域でございます」
「名前さえ出てしまえば、後は実に楽なものです。売り絵を描いて、途方もない大金を得ることができるのですから。しかし、芸術とはそんなものではございません。……売り絵に感動はございませんから」
 貧乏でなければいい絵は描けない、とも語っている(『アダンの画帖』南日本新聞社・中野惇夫編)。
 
 まだまだ書ききれない、表出しきれないという不満足感が半端ない。いずれまた挑戦しなければならない日が来るに違いない。これを書きながら改めてそう思い定めている。
 
         *
 
「それでもあなたは天才に生まれ変わりたいですか?」
 ――神の如き才能を引き受けるだけの覚悟があるのか。己れの人生を差し出す勇気と捧げ尽くす覚悟があるのか。
 想像しただけでも身の毛がよだつ。穏やかならぬ苦闘、苦行の日々を想うと恐れと慄きしかない。
 音楽喫茶に入り浸り、長髪のおくれ毛を指でこねこねしながら、煙草を片手に「天才に生まれ変われるものならば生まれ変わりたいものよのう」などとうそぶいていた自分に鞭を喰らわせてやりたい。
 才能のなさに悶々とする日々、諦めきれず執着し続ける人生……。 
 成功がすべてなのか。必ず成功しなければならないのか。成功しなければ失敗なのか。
 才能がなくったって、素養がなくったって、やりたければやり続けて、執着し続けて、それで人生が終わったとしても、それはそれでいいじゃないか。そんな生き方があってもいいじゃないか。
 好きなことなら、やりたいことなら、素養や才能の多寡など構いはしない。できるかできないか、できているかいないかなどが問題なのではない。結果だけがすべてではないのだ。
 考え方次第なのだ。自分なりの刻苦勉励とその果てに訪れる自己の最終評価こそが大切なのだ。他人にとやかく言われる筋合いの話ではない。 
 
 心奥に湧き起こる、なにかに駆り立たせようとする情動を持て余している。いつの日にかこの生起する魂魄を表出し尽くしたいと今も強く念じている。

         *

真民師より戴いた一葉



    


 
 

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