
伝説の秘境湖
舗装された国道を歩いていて一台の車とも出合わなかった。人とも出くわさなかった。
車道を離れ林道に入り、そして自然林が生い茂る渓流沿いの登山道へ。湖から流れ落ちてくる川のせせらぎを聴きながらさらに奥へ進む。
鬱蒼とした登山道から赤土が露わになった明るい道に変わり、最後は急峻な岩場を登攀すれば辿り着く。その秘境湖はいきなり目の前に立ち現れる。
雨水、湧水、雪解け水を湛えた広大な湖。包み込む緑濃い湖畔林。負の想念は一瞬にして消え、冷厳な静寂の世界に息を呑む。
人の手により造られたような溶岩石が積み上がった桟橋の突端に立った。溶け残った雪に粧われた山岳が湖面に映っている。
頬を掠める風が心地いい。坐り心地のよさそうな岩の上に背負ってきたリュックを降ろし、腰を下ろした。登山靴も脱ぎ、胡坐をかいた。
背筋を立て、五感を解放しかかるとすぐに野鳥の鳴く声が耳に入ってきた。陽ざしのもたらす温もりと湖畔の冷気が絶妙のバランスで至福感をもたらしてくれる。
清涼な空気を少しずつ鼻から吸い込んでいく。鼻腔にすっとする冷気が伝わってくる。さらに胸、腹腔を膨らませていく。そして息を止める。なにもかもがわが身に浸透してくるような充足感に包まれる。
唇を窄め、ゆっくり吐いていく。
――浄化されている
毒気が抜けていくような爽快感、清涼感が湧く。心身が清められ、リセットされていく……。
陽が落ち、山稜が暗紅色に焼け残る。
周囲が薄墨から深い暗色に落ち、天空におびただしい数の星が現れ始める。
こと座のベガ、わし座のアルタイル、はくちょう座のデネブ。夏の大三角。七夕伝説の織姫(ベガ)と彦星(アルタイル)。
光害はなく、目を凝らさずとも天の川ははっきり見えている。湖面にも映り、仄かに揺れている。
――わたしを置いてくな。
………………。
――ひとりにしないって約束したじゃないか?
………………。
――置いてくな。
――置いてくもなにも、先に逝ったのは君じゃないか。……だから逢いに来たんじゃないか。
――彦星みたいに?
………………。
――寂しかったよ。
………………。
――このままずっと一緒にいられたらいいのに。
………………。
車道を離れ林道に入り、そして自然林が生い茂る渓流沿いの登山道へ。
湖から流れ落ちてくる川のせせらぎを聴きながらさらに奥へ進む。
鬱蒼とした登山道から赤土が露わになった明るい道に変わり、最後は急峻な岩場を登攀すれば辿り着く。
その秘境湖はいきなり目の前に立ち現れる。