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福田翁随想録(39)

 この世に「極楽社会」はあるのか

 とかくこの世はしがらみが多く、住みにくい。これは今に始まったことではなく、昔からそうだったことは白隠禅師(1685~1786)の次の一首からもわかる。

 世を捨てて山にいる人
 山にてもなほ憂き時はいづち行くらむ

 山に住まったとしても「平安」は保障されないのだ。

 山のあなたの空遠く
 「幸(さいわい)」住むと人のいふ。
 噫(ああ)、われ人と尋(と)め行きて、
 涙さしぐみ、かへりきぬ。
            カール・ブッセ(1872~1918/上田敏 訳)

 結局は、落胆して帰ってくることになる。
 私も子ども心に北上山地を眺めながら、あの山涛の先に何かわれわれの知らない世界があるのではないか、と空想したものである。
 山の彼方にいざ行ってみても、そこはやはり同じ次元の現実世界でがっかりして帰って来ざるを得ない。住みにくいと言って山に逃げたとて根本的なことは解決されない。
 とかくわれわれは今居る場所が一番つらいと思いがちである。自分の方が理に合って正しいのに相手は分かってくれない。あれだけあの人のことを考えてあげたのにこちらの言うことを聞いてくれない。おかげで今つらい目に遇っている……などと、苦悩にはきりがない。

 ここで忘れることのできない、当時マスコミで大きく報道され、世間の関心を集めた一大事件を思い出した。
 昭和十三年に女優の岡田嘉子が杉本良吉(演出家)と手に手を取って樺太国境を越え、ソビエト(現ロシア)に亡命した事件だ。当時のことは私も多感な青年でよく憶えている。
 日本は昭和六年から始まった満州事変を皮切りに十五年に及ぶ戦争に突入していて暗かった時代だった。急進的な陸軍の青年将校らが極貧の農村の窮乏を訴え、保守政治体制打倒クーデター(二・二六事件)を起こしたのは、その二年前の昭和十一年二月のことだ。
 私の村から入営した青年によると、満州は零下十五度であっても真水で洗濯しなくてはならないという過酷さだったが、それでも三度三度白いご飯を食べられるだけ村にいるより楽だったと言っていたのを憶えている。東北の農村がどんな貧しい暮らしを強いられていたことか。遠からずわれわれも戦場に向かわなくてはならず、人生における将来計画など考えられなかった。そんな時代に岡田と杉本の二人は日本を捨て亡命したのだ。
 昭和初期プロレタリア文学はこんな時代を背景に文壇をにぎわせていた。当時社会主義国であるソ連は理想国家に映った。ソフホーズとかコルホーズといった集団農場には搾取はなく、農民はみな嬉々として働いている模様が伝えられていた。  
 亡命直後こそ大賑わいさせていた岡田と杉本の二人だったが、その後の消息はぷっつりと途絶えてしまい、マスコミはそれどころでなく拡大する一方の戦争記事に追われていた。戦後明らかになったところによると、二人の扱いはスターリン粛清で想像を絶する悲惨なもので、スパイ扱いされた杉本は処刑され、岡田は対日戦の宣伝などを強要されたりしていたらしい。
 昭和二十二年に釈放されたもののあえて帰国せず、昭和四十七年になってやっと帰国した。その後テレビや映画に出演していたが、どこか暗い影を引きずっているように私には見えた。
 いったいこの世の中に極楽社会はあるのだろうか。努力によって建設可能なのだろうか。

 さらに昭和四十二年エルサレム郊外のキブツを視察した日のことを思い出した。これも忘れ得ぬ思い出だ。
 イスラエルは一九四七年シオニズム運動が承認され、二千年来のユダヤ人の願いであるシオンの丘に還ることができた。しかし従来いたパレスチナとの抗争は絶えない。
 キブツは典型的な共産社会であった。農業を主とした四万人ほどの集団であったが、集団の構成員としての強い自覚と責任があればこそ成立を可能にしている。
 たまたまそこで日本から来ている若者と出会った。
 漆喰塗の部屋には最小限の家具調度品しか並べられていなかった。飾り気がなく、絵のような額もない。年百四十ポンド(約一万六八〇〇円)ほどの収入があるそうだが、使い道がないから持っている意味もないという。 
 今は私が訪ねた頃とはいくらか事情は違ってきているようだが、子どもは生まれると一週間ほどで保育所に引き取られ、母親は一日にわずかな時間だけ面会できる。
 若者はしきりにこの育児、教育制度を礼讃していたが、別れ際にこんな本音を吐いていた。 
「食べ物には困ります。やはり口に合いませんから来年には日本に引き揚げます」
 いかに理想的な集産主義共同体のキブツであっても、異国の人間にはとても極楽社会とは言えないようだ。

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