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福田翁随想録(32)

 なにが人類を滅ぼすのか

 地球の平均気温がほんの一度上がってでも北極海の氷に異常が起こらないはずはなく、さらに気象にどんな変化をもたらすか予測がつかない。
 いま地球に起こっている温暖化、異常気象は、これまで人間が自然に対して不逞に挑んだ文化や文明のもたらしたツケなのだから、自業自得としか言いようがない。
 人類は自然に対する順応力が低いから、地球の変化にいかに悪賢く立ち回ってもなかなか順応していくことは難しい、と私は思っている。
 新聞に面白い記事が載っていた。 
 探査艇が太陽の光も届かない深海に降りていくとプレートの割れ目から高熱のマグマが噴き出しいた。驚くべきことにそこを絶好の棲み場所にして密生している無数の貝類のような生物が写真つきで紹介されていた。
 おそらくそこには硫化水素のような猛毒物質が充満しているはずだが、その貝類のような生物にとっては棲息、繁殖に適した快適な場所なのだろう。
 この地球が汚染され尽くし人類が住むことができなくなったとしても、長い宇宙時間を経るうちにいつしかそんな地球を適地とする新たな生命体が発生、誕生してくるかもしれない。
 さらに空想の羽を広げてみたい。
 近ごろの恐竜ブームが子どもたちだけでなく大人の世界でも真面目に取り上げられてきたのはなぜだろうか。
 私は人類の恐竜に対する郷愁――先祖返りの心理からではないのか、さもなければ遥かなる太古の恐竜たちの亡霊のメツセージを今日の人類が受信しているせいではあるまいかと妄想する。
 地球が四十五億年もかけて公転と自転を繰り返して今日のような形になるまで、灼熱、温暖、寒冷を転々としてきたことだろう。その果てに生命が発生し、やがて水陸両方で暮らす両棲類に進む。
 今日化石の発見によって、三億年前の中生代になって爬虫類が進化して恐竜の発生になったと推測されている。草食恐竜は雨に恵まれた密林のなかで食べ物に不自由することはなかったろう。
 今日動物園で飼育しているゾウは毎日百キロから二百キロの草を食べるそうだが、草食恐竜の図体からすればその数倍は必要だったかもしれない。
 その楽園に環境の変化で肉食恐竜が出現する。群をなす草食恐竜は狂暴な肉食恐竜にとっては格好な餌となっただろう。初期は棲み分けていたかもしれないが、環境が肉食恐竜に適したようになるにつれ、爆発的に増殖した。頑丈な後ろ足に、手の機能を持った前足の鋭い爪で草食恐竜は絶滅に追い込まれていった。
 天敵のいない巨獣は行きつくところまでいき、ついにはすさまじい共食い闘争にならざるを得なくなる。灼けつく太陽の注ぐ地上で凄惨な光景が繰り広げられ、今日たまたま発掘される恐竜の化石はその闘争の末の死骸だったのかもしれない。自らの烈しいエネルギーで自ら破滅に突進するという自己矛盾に陥っていった。ついには地球上の寒冷化によって生息できなくなり滅亡していった。
 肉食恐竜興亡の過程は、今日の人類に対して教訓を垂れていないだろうか。私の悲劇的な空想は涯しなく続く。

 大気汚染がさらに悪化し人類が死滅してしまったのちに、何億年かかけて「新生人類」(そう呼べるのかどうかわからない)が誕生したとすれば、自分たちの住む地球の資源を枯渇させず、節操をもった、恥を懼れる種になっていてもらいたいと思う。地上と地下にはわれわれ人類の死骸が肉食恐竜のように元素に還元されかかって残留しているはずである。
 生命方程式の推計値によれば、紀元前六十万年のアダムとイヴ以来の出生総数は七百億から千百億人といわれる(嵯峨座晴夫早大教授)。われわれを含む数千億人の残した元素が新生人類の何らかのお役に立つかもしれないと夢想すれば気も休まるではないか。
 宮澤賢治の『フランドン農学校の豚』の世界では、豚を処分するにあたっては家畜撲殺同意調印法に照らして相手の同意を得なくてはならないことになっている。 
 この作品に込められた真意は、地上の生きとし生けるものに対して勝手な振舞いをしてはならないという教示なのかもしれない。

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